林知己夫(1996)「
日本らしさの構造―こころと文化をはかる 」(東洋経済新報社)は、海外比較を含めた国民性調査の長い蓄積から、日本人らしさをあらわす「J−態度」の特徴として、以下の3点をあげている。
@人間関係重視
A中間的回答の多いこと
B宗教を信じないが宗教的な心を大切にする
ここで、中間的回答とは、「非常によい」と「まあよい」なら、「まあよい」の方の回答、また「どちらともえいない」、「分からない」といった回答を指す。
そして、1953〜88年の継続調査において、新しい年次の方が「J−態度」的であり、また現時点では若い世代の方が「J−態度」的だと分析している。また、中間的回答については、以下のようなプラスの評価を与えている。
「私はこの中間的回答をする発想そのものは(中略)本居宣長のいう「漢心(からごころ)」なき素直な見方ができ、不確定状況の下でうまく対処することが無理なくできる長所であると思われる。」「中間的回答好みは国際化時代に適用しないから「はっきりものをいえ」という人がいるが、これは日本人が日本人でなくなることを意味する。」
私の両親は近代的な明るい家族をつくろうと努力し、知り合いのインテリ医師にあこがれたり、朝日新聞なんかを購読したりしていたが、所詮、相撲力士の息子と北前船主の孫娘であるので、私を真のモダン・ボーイには育て損なっていた。
私は、幼い頃、ご主人が興銀マン(のち頭取)の母親の友人宅を訪れ、ご馳走になった時のことを思い出す。母の友人である近代的な感じの夫人は、AとBとどちらが食べたいと私に尋ねたので、何の疑問もなく、「どちらでもいいです」と答えた。そうしたら、「どちらでもいいです」ではなくて「Aがいい」あるいは「Bがいい」とおっしゃいとたしなめられた。私は主体的な発言をした方が相手を敬うことになるという夫人の考え方に同意するとともに、これまで疑問もなく使っていた慣例的な発言に非があることを自覚させられたことに少し傷ついた。後で考えて、「どちらでもいいです」とは、何も、AもBもどのみち大したことない食事だという含意はもってはおらず、単に「私などはご迷惑が懸からない方で結構です」というへりくだり(謙遜)の表現をすることで相手を上位に置きたいということだったのになあ、と自らの軽い傷心を慰めたのだった。
不確定でも、はっきりAがBかを表明しないと、次に進めないとする考え方と、確定していても、AかBかをはっきりさせない方が、世の中うまくいくという考え方は、それぞれにそれなりの有効性があるのであろう。
中間的回答の具体例は、この図録のほか、図録
8062(アジア的価値観の各国比較(日本・韓国・台湾・中国))、図録
8598(米国を世界はどう見ているか)にも見られる。これらでは、欧米だけでなく中国、韓国などと比較しても中間的回答が多いという日本の特徴は明確である。
こうした日本人の特性は、女性のシワのできかたにも影響を与えているようだ。米国ロサンゼルス在住の女性歌手八神純子は、キャロライン・ケネディ駐日大使のシワが話題になっていることと関連して、こう言っている。「長年のアメリカ暮らしでできたシワは、日本で過ごしていたらできたであろうシワとは違うと思っている。欧米人は表情豊かに話すので、英語の上達とともに私もそんな表情をするようになりシワが増えた。特におでことまぶた。驚いた時など眉毛をあげたり下げたりしているとシワになった。笑うときも口に手を当てないで豪快に笑うので、頬の辺りにも線が出た。
」(東京新聞「言いたい放談−シワ物語」2014.1.24)
拙著「統計データが語る 日本人の大きな誤解」でも言及したが、「こうした日本人のあいまいさは、人間関係重視のなかで生じたものだと推定できる。明確な物言いで他人を傷つけない配慮が心の働きとして習慣化しているともいえるのである。これが日本社会の過ごしやすさを生んでいることも確かであろう。」(p.232)
日本社会は欧米諸国と比較して低ストレス社会である点を図録
3274でふれたが、狭い島国で暮らしていくためには、あるいは、近世以降の”むら”社会の効率性を維持するためには、日本人が相互になるべく角突き合せない生き方の工夫をしてきた努力の結果といえよう。東アジアの儒教圏諸国の中で他国と異なる日本の特徴として、親が子に教えたい精神的態度として日本人が何よりも「思いやり」を第1にあげている点にもこうした点が明確である(図録
8068参照)。相手を思いやるのは、何も相手のためだけではないと考えられる。会議で相手の誤りを明確に指摘するのではなく、遠まわしに分からせる工夫を凝らすのは、別の機会に、自分の誤りが端的に指摘されて傷つくのが嫌だからに相違ない。傷つけあわない工夫がストレスの低減につながるのである。
図録
3274でも引用したが、海外とも比較しながら国民性調査に長く携わった林知己夫はこう言っている。
「日本人は「日本社会は人間関係が煩雑で高ストレス社会だ」などという、マスメディアの無根拠な報道を信じ込んでいるが、それはまったくの誤りである。むしろ、日本人の一見煩雑に見える人間関係のあり方が、人間のもつ攻撃性をやわらげ、人間同士の直接的な衝突を回避させることに役立っていると考えるべきである。」(林知己夫・櫻庭雅文(2002)「
数字が明かす日本人の潜在力−50年間の国民性調査データが証明した真実
」講談社)
真偽・理非の判断が困難なときには「折中の法」に従い、双方痛み損の判決にするというのが日本の中世の法理念であり、これにもとづき「喧嘩両成敗」が慣習化し、近世に入っても、当然の紛争処理法とされた。「だとすると、折中はもはや、中世的というより日本的と呼ぶべき思考習慣である。日本人は理非の決着をつけるのを嫌うのだ。その習性にはひとつには、集団内の和がみだされるのをいやがるもうひとつの習性のしからしむるところかもしれないが、より根底的には、明確な理非の存在についての懐疑的な思考癖のせいなのである。彼らは生まれながらの相対主義者であって、ただひとつの真実というのは居心地がわるいのだ」(渡辺京二「
日本近世の起源」洋泉社新書y、p.156)。
日本人の特性の由来にいついて、私も、集団の和のための手段という側面もさることながら、むしろ、島国であることから世界の大思想の影響が余り深くなく、その結果、大思想発祥以前の太古の精神性を保持し続けていると理解するのが良いのではないかと思い始めている(図録
3971d、図録
9528参照)。
意識調査に対して日本人が「わからない」と回答する比率が多い点に関して、気候学者の鈴木秀夫は、それは、西洋の「砂漠の思考」に対して東洋の「森林の思考」に日本人が特に親しんでいるためと見なしている。
鈴木秀夫は、ドイツ人が、わからないという状況が耐え難くて、物事の理解より自分の意見をはっきり持つということを優先する態度をとり、例えば、よく知らないにも関わらず訊ねられた道をきっぱりした態度で教えたりすることをドイツでの生活で見聞きして驚いたという経験をあげ、これに対して、日本人は、人間の判断を空しいものとみなす仏教の思想に影響され、理解していることでも自分の理解は不十分なのではないかと感じ、むしろ「わからない」と回答する方がしっくりする気持ちを抱くのだとしている(「
森林の思考・砂漠の思考」NHKブックス、p.14〜18)。そして、こうした東西の考え方の違いを気候風土に影響されて生まれたものとしている。
「このような東西二つの論理の分かれ道は、どうしておこったか。そこに、砂漠と森林がかかわっていると私は考える。砂漠では、ある一つの道が水場に至る道であるか否かどちらかに決断をしなければならない。その道が生への道であると判断することは、他の道は滅への道であると判断することである。それに対して、森林には、生が充ち満ちている。生への道か滅への道か思いわずらう必要がない。生と滅を区別する必要がない。人間が、これだと思った道から迷うことによって、かえって桃源郷を発見する。」(p.83)
ここで、気をつけるべきは、中国や韓国はむしろ「砂漠の思考」の影響が強いとされる点である。中国思想における論語の「天」は「森林の仏教の如来よりは、砂漠のキリスト教の神に近い」(p.104)。韓国についてはこうだ。「水蒸気の供給源である太平洋の方向には日本列島が屏風のように連なっていて、雨はそこで大部分落とされてしまっている。日本の湿潤と韓国の乾燥は裏腹の関係にあるわけである。サハラから、アラビア、タクラマカン、ゴビをへて中国北部にいたる大乾燥地帯の、もう一つの延長の部分として韓国の立場を理解することもできる。その見とおしのよい韓国では、日本にはない、最高神の崇拝が伝統としてあった」(p.112)。だから、キリスト教がなかなか普及しなかった日本と対照的に、韓国ではキリスト教が積極的に受容されたという訳である。
このように考えると上で紹介したような意識調査において、韓国人が「わからない」と回答する割合が日本人とは対照的に少ないのも合点がいく。