統計数理研究所が行った国際比較調査の中では、宗教心に関し2つの設問、すなわち、「あなたは、何か信仰とか信心とかを持っていますか?」と「それでは、いままでの宗教にはかかわりなく、「宗教的な心」というものを、大切だと思いますか、それとも大切だとは思いませんか?」という2つの設問を行っている。 この2設問への回答を散布図で見てみよう。X軸に「信仰や信心をもっている」の比率(すなわち無宗教の者が多いかどうかの比率)、Y軸に「宗教的なこころは大切」の比率をとってみると、両者は、ほぼパラレルだということが分かる。無宗教の者が少ないイタリアやインドのような国では宗教心も大切だと考えているし、逆に、中国の北京や上海、あるいは欧米の中ではオーストラリアやオランダのような無宗教の者が多い国や地域では、宗教心もそれほど大切とは思われていない。 これが宗教に関する考え方の世界標準のフレームワークである。ところが、日本人はかなり変わっている。無宗教の者が多い割には、宗教心を大切にする者がやけに多いのである(図録9527でも同様の国際比較結果が得られている)。 2024年11月に92歳で亡くなった詩人谷川俊太郎の辞世の句ともいうべき「感謝」という最後の詩が以下のように閉じられているのもそうした日本人の感性を反映している。 どこも痛くない 痒くもないのに感謝 いったい誰に? 神に? 世界に? 宇宙に? 分からないが 感謝の念だけは残る これを、信仰や信心とまではいえない山川草木や神社などに対するアニミズム的な宗教心が強いと考えるか、あるいは、キリスト教、イスラム教、仏教といった教義宗教を嫌う気質があると考えるかは、見方次第であろう。 図録9530では、祖先の霊的な力への感受性が、日本の場合、先進国では普通見られないほど非常に高い点を見たが、これを思い出すと原始宗教的な宗教心が強いとも思える。 他方、日本の歴史をさかのぼり、外来宗教を在来宗教と調和させた「神仏混淆」の考え方が古来より自然に受け入れられてきたことを振り返ると日本人の教義へのこだわりのなさは生来のものといえる。神を信じるのも信じないのもどちらも何か違うと考えている日本人の特殊な神観について図録9528でふれたが、やはり、起源を一にしているものといえよう。統計数理研究所の所長としてこれらの設問を含む一連の調査を企画実施した統計学者の林知己夫は、こうした考え方が影響してキリスト教など自分たちと違うものを排斥する教義をもつ排他的な宗教は日本では広まらないと考えた(林知己夫(1995)「数字からみた日本人のこころ」徳間書店林、p.72〜73)。 実は、林知己夫がこうした考えに至ったのは統計数理研究所が5年毎に継続して行っている「日本人の国民性調査」でこれらの設問に対して無宗教なのに宗教心を大切にするという非常に安定した回答が得られることに気がついたからである(図録3971e)。冒頭に掲げた国際比較はこれを諸外国と比べて確認するために行われたものであり、案の定、日本人の特殊な宗教観が明らかになったのである。 下には、日本人に対して継続的に行われた2設問の結果を再録した。戦後日本人の意識は多くの点で変化したが、少なくとも2013年までは、この2設問に関しては変化は小さかったことがうかがえる。 変化が小さいのには高齢化の影響もある。すなわち、この2設問は高齢者ほど回答率が高くなるから(図録3971a)、高齢者の割合が増えるほど高めにバイアスがかかるのである。年齢構成が同じだったらという年齢調整を行ってみると、両設問ともやや下降傾向をたどってはいる。大きな変化ではないが無宗教が増え、宗教心を大切にする考え方も減る傾向にはあるのである。しかし、両設問の回答率の食い違いは不変だったのであり、そうしたことから信仰と宗教心に関する世界標準からの日本人の乖離の状況にも変化はなかったのである。 ところが2018年の結果からはこうした日本人的な宗教意識が変化してきたと見られなくもない。すなわち、「宗教的なこころは大切」だけ急落したのである。この結果、冒頭の散布図でも日本の位置は海外諸国の傾向範囲に近づいた。やっと日本も「普通の国」になってきたのかもしれない。 (2017年4月4日収録、2022年8月2日更新、2024年谷川俊太郎最後の詩)
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