神の存在について「分からない」と回答するものの多さで日本人は世界一である点を図録9520で示したが、ここでは別の国際調査で、やはり日本人の神観は特異である点を示そう。この図録の結果をグラフ形式を変えてダイヤモンド・オンラインの連載コラム(第6回)でも取り上げたので参照されたい。

 宗教をテーマにした2018年のISSP調査では、33カ国の国民を対象に、神についての日ごろの考えについて、以下の6つの選択肢から1つを選ぶ設問を設けている。
  • @ 神の存在を信じない
  • A 神が存在するかどうかわからないし、存在するかどうかを明らかにする方法もないと思う
  • B 神がいるとは思わないが、何か超自然的な力はあると思う
  • C 神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある
  • D 神の存在に疑問を感じることもあるが、神は存在すると信じている
  • E 私は、実際に神が存在することを知っており、神の存在に何の疑いも持っていない
 設問が択一回答なので本来なら帯グラフで結果を示すのが通常のところ、塗り分けの見にくさや数値表示の困難を回避するため変形帯グラフとでもいうべき棒グラフ形態で示した。

 日本人の回答はA(不可知)とC(信じるときも信じないときも)への回答率が最も多く、また、最後のE(堅固な信仰)への回答率は最も少なかった。日本人の神観は世界で最も特異なものといえるだろう。

 グラフを見ると、Eの神が存在すると知り、神の存在を疑わない者は、ギリシャ正教徒が多いジョージアと対象国中唯一のイスラム国であるトルコでは85.2%を占めており、最も多くなっている。この他、70%以上がそう思っている国は、フィリピン、チリといったカトリック国および土着宗教も根強い南アフリカである。

 G7諸国の中では米国が54.2%と特段に高く、2位のイタリアの33.8%を大きく凌駕している。その他ではドイツ、英国、フランス、日本がそれぞれ、17.8%、16.3%、15.2%、3.3%である。主要先進国のなかではやはり米国は神の国であることが確認できる。

 グラフでは、上から台湾まで、すなわち約半分ぐらいの国までは、おおむね、Eの堅固な信仰が低まるにつれてDの疑いつつも信じる者が多くなることが分かる。EからDへシフトしながらだんだんと宗教性が弱まっていく様子がうかがえる。それ以降の国となるとほぼDとEが両方少なくなっていく。

 神を信じる者が少ない方では日本が最も少ないが、これに、スウェーデン、デンマーク、チェコ、ノルウェー、フィンランド、フランスといった北欧や旧社会主義国のチェコが10%台前半で続いている。

 北欧を含む欧米先進国における神の存在を信じる者の比率の推移は図録9522に示しておいたが、スウェーデンなどは早くから神の存在への懐疑が高まっていたことが分かる。

 日本人の回答のうちで最も多かったのは、Cの「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」の31.0%である。これは2番目に値の高かったブルガリア、リトアニアの19.8%を大きく凌駕しており、Eの少なさと並んで最大の特徴点であるともいえよう。神の存在は証明できないとするAの選択肢も日本が一番多いが2位以下とCほど離れていないのである。

 すなわち、日本人にとっては、神の存在は分からない(証明できない)から信じないという合理的な考えの側面もあるが、むしろ、信じるときも信じないときも実際的にあるので、存在を疑わないとは言い切れないとしているだけなのである。存在か無かという普通はどちらかに決めるしかないような事でも、場合によっては、どちらでもよいとしていて構わないと考える点が日本人の特徴なのである。なお、Cの値が多いのはブルガリア、リトアニアに次いでロシア、スロバキア、ハンガリーなどであり、こうした国の国民の中には日本人のことを理解できる人も少しはいるかも知れない。

 神仏についてははっきりさせることもないとする精神性は、日本では古来からのものらしい。吉田兼好は徒然草で次のように言っている(73段)。

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。(中略)とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍らしからぬ事のままに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。

(佐藤春夫による現代語訳)世に言い伝えていることは、真実では興味のないものなのか多くはみな虚言そらごとである。(中略)ともかくも嘘の多い世の中である。それ故、人があまり珍奇なことを言ったら、いつもほんとうは格別珍しくもない普通の事に直して心得てさえおけばまちがいはないのである。下賤な人間の話は耳を驚かすものばかりである。りっぱな人は奇態なことは言わない。こうはいうものの、神仏の奇跡や、高僧の伝記などを、そんなふうに信じてはいけないというのとは違う。これらは、世俗の嘘を本気で信じるのも(引用者)間抜けだが、まさかそんな事実はあるまいと争論したとてはじまらないから、だいたいはほんとうのこととして相手になっておいて、むやみに迷信したり、またむやみに疑い嘲ったりしたりしてはならない。

 佐藤春夫による現代語訳は日本文学全集5(河出書房新社、1960年)による。


 この設問への回答の一位項目と二位項目が何かによって対象33カ国を整理した表を上に掲げた。

 Eの神の存在を疑わない堅固の信仰を持つ者が最多の国が多いが、Dの「疑問はあるが信じる」が首位の国も堅固な信仰の国に近いといえよう。

 これらを除いた無宗教に近い国の中にも大きく分けて3つのパターンがあるといえよう。

 第一に、積極的に信じないとする者が最多の英国、スウェーデン、デンマーク、チェコ、ノルウェー、フランス、韓国、ドイツである。これらは、信じられなくなったというよりは、積極的に信じないとする世俗主義が普及した国々である。フランスはフランス革命のときに週7日制というキリスト教の影響下から脱するために週サイクルのメートル制とでもいうべき週10日制を採用した世俗主義の元祖である。その後、ロシア革命の後にも同様の変革が一時期行われた。チェコや旧東独を含むドイツはフランスの世俗主義とともに宗教はアヘンとしたマルクス主義の影響もあろう。

 第二は、アイスランド、スイス、スロベニア、オーストリアといった超自然的な力の信仰がトップであるが積極的に信じない人はそう多くない国々である。北欧や中欧に多いタイプである。

 第三は日本であり、これは似たパターンの国がなくワンアンドオンリーである。おそらく世界の常識から乖離しすぎているのであろうが、日本以外ではCの「信じるときも信じないときもある」についてはブルガリアが二位項目にしているだけである。日本の無宗教はフランスのような「反」宗教というより「超」宗教であるといってよいだろう。

 儒教の影響が強い点が共通であり、国際的な意識調査では似た位置にある場合も多い韓国であるが、以下の図のように、こと神観については、積極的に信じない者も、堅固に信じている者も日本よりずっと多い点など、かなりの差がある。韓国は東アジアの中で唯一キリスト教徒の比率が3割近くへと大きく拡大した国である(図録9460参照)がその影響が大きいと思われる。あるいはもともと神観が異なるので日本と異なりキリスト教が普及したのかもしれない。



 表で見たように同じ儒教圏に属するのに日本と韓国・台湾は必ずしも同じグループに属していない。孔子は「鬼神を敬して之れを遠ざく」と言い神や先祖の霊に対しては距離をおいたが、ここからさらに無神論に傾斜していった朱子学を荻生徂徠は聖人の道を知らないと批判している(図録9525の(注)参照)。日本人の神観は孔子の思想に影響された可能性はあるが、そうだとしても、台湾や韓国などのように後代に理論化された儒教に影響されず、古代儒教をそのまま継受している点に日本的な特徴があらわれているといえよう。

 参考に前回2008年のクロス表を掲げておいた。2008年には堅固な信仰の国が40国中25か国と62.5%だったのが2018年には33か国中18か国と54.5%へと低下しており、またEが50%未満の国が50%以上の国より多くなっており、世界的に脱宗教の流れとなっている。もっともトルコしかイスラム国が対象に含まれていないので必ずしも公平な評価ではない。

 2008年にはフランスとドイツは@信じないが一位項目だったが、国内にEの堅固な信仰を持つ者、あるいはDの疑っているが信じている者が2番目に多く、いわば無宗教と宗教とが並存していた。ところが2018年は二位項目がすべてB(超自然的な力はある)に変わった。脱宗教への傾斜がうかがえよう。

 スウェーデンは2008年には二位項目は「信じない」だったが一位項目は「超自然的な力はある」だった。スウェーデンの脱宗教は少しナゾであるが、合理主義への傾斜と超自然的な力への信仰のアマルガムの結果かもしれない(ベルイマンの映画を思い出す−図録1505参照)。

 最後に、同じような設問で神の存在について聞いている草創期の世界・欧州価値観調査の結果を以下に掲げる。日本はやはり「存在するような、存在しないような」という考えが他国と比べて多いのが特徴だったことが分かる。


【コラム】日本人の宗教観に共鳴する欧米人もいる

 本文の通り、日本人の神観、宗教観はかなり特異であるのであるが、これに共鳴する欧米人もいることを忘れてはならないだろう。

 フランスの人口学者・社会思想家であるエマニュエル・トッドは、2015年1月にパリで起きた新聞社、シャルリ・エブド紙への襲撃事件に対してフラン全土で起った「わたしはシャルリ」デモのうねりを不健全なものとして批判した著作「シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧」 (文春新書、原著2015年)の「日本の読者へ」というまえがきで次のように述べている(この著作の内容については図録5230e「コラム:シルバー資本主義のゆがみ」も参照)。

 ムハンマドの諷刺をフランス社会の真の優先事項と見なすことを拒否するがゆえに、私はいっとき孤独で、自分の属する社会から切り離されたように感じていました。ある土曜日の朝、非常に早い時刻に−今も鮮明に憶えています−『読売新聞』の鶴原徹也記者が東京から電話をかけて来ました。私は彼と話すことを承諾し、そのインタビューの中で、フランス社会の大勢に与することへの自分の消極姿勢を語りました。そうすることで私は、正真正銘の安堵感、解放感、孤独からの脱出感を味わいました。数日後、パリの自宅に別の日本人記者を迎え入れました。今度は、『日本経済新聞』の竹内康雄記者でした。その折のインタビューが日本で新聞に掲載されると、それがAFP通信社の東京支局によって要約され、パリに逆輸入する形で報道されました。私の態度はフランスではきわめて異端的と受け取られましたが、AFPの記事は私には贈り物をしてくれていました。その記事は、私の態度が、他者の宗教を頭から批判することには消極的な日本人の態度に近いということを示唆するフレーズで締めくくられていたのです。かくして私は、フランスの思想論争劇場の舞台に独りぼっちではなく、一億三千万人の日本人に暗黙のうちに支持されているかのような形で再登場したのでした。そのとき私は、自分にとって日本が何であるかを意識しました。日本は私にとって、知的な足場の一つであり、心理的安定の拠り所なのです(p.1〜2)。

(2016年2月24日収録、2月25日マウスオンでデータ・グラフ、4月13日孔子思想との関係のコメント追加、8月3日1981年調査の結果掲載、2018年9月23日マウスオン・オフによる図切替からラジオボタンでの選択方式へ変更、2023年7月9日更新、表示選択なしに)


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