世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループが参加し、共通の調査票で各国国民の意識を調べ相互に比較する「世界価値観調査」が1981年から、また1990年からは5年ごとに行われている(5年ごとといっても各国の調査年次は多少ずれている)。最新は2017年からのwaveであり、間隔がやや空いた。各国毎に全国の18歳以上の男女1,000サンプル程度の回収を基本とした個人単位の意識調査である。

 世界価値観調査は種々の研究調査に活用されているが、世界各国の国民の価値観を、伝統的か合理的かの軸と生存重視(言い換えると物的生活重視)か自己表現重視(言い換えると個性重視)かの軸とで分析・整理したイングルハートの研究が有名である。

 この図録で紹介した2次元マップについては、「イングルハート-ヴェルツェル図」と呼ばれたり、当人達によって「世界文化マップ」と呼ばれたりしているが、ここでは、国連開発計画のロシアに関する報告書(UNDP(2011))が、このマップを"R. Inglehart Value Space"と呼んでロシア人の揺れる価値観を分析したのに倣って、「イングルハート価値空間」と呼んでいる。

 イングルハートらは、経済発展によって文化は同一方向に変化するとしたマルクスやダニエル・ベルと文化的な価値観は各々の社会に固有のものであり続けるとしたマックス・ウェーバーやサミュエル・ハンチングトンのどちらが正しいかを実証的に確かめるべく世界価値観調査の結果を分析した結果、一見、逆説的ではあるが、両方とも正しいとする次のような結論を得たとしている。「経済発展と平行して、絶対的な規範や価値から合理性、寛容、信頼、参加にもとづく価値へとますますシフトする傾向があるが、こうした文化的な変化は「経路依存的」(path dependent)である。近代化過程の中でも、プロテスタント、ローマン・カトリック、ギリシャ正教、儒教、共産主義といった大括りで捉えた社会的遺産は人々の価値観に痕跡を残し続ける。また、同じ国の中で異なった宗教を持った者がもつ価値観の差異は、国別の差異よりずっと小さい。いったん確立した国ごとの差異は教育機関やマスメディアによって受け継がれていくのである。我々の結論は近代化理論を幾分か改訂することになったと考える」(Inglehart and Baker(2000))。

 なるほど、各国のこの数十年の変化は、その国が属する大括りの文化圏グループの分布の範囲に収まっていることが図からうかがえる(儒教圏からはみ出しつつある日本はやや例外)。図掲載国以外の国については、ページ末尾に掲げた2017年期データにもとづく配置図を参照されたい。

 なお、散布図のY軸(伝統←→世俗・合理)は近代化の第一ステップ、すなわち農業社会から工業化社会への工業化プロセスに対応し、X軸(物質←→自己表現)は近代化の第二ステップ、すなわちサービス経済化による脱工業化プロセスに対応する価値軸として捉えられている。実際、工業マイナス農業の就業比率は前者と相関が高いし、サービス業マイナス工業の就業比率は後者と相関が高くなっている(Inglehart and Welzel(2005))(注)

 図録に示したのはこうした研究を主要国に限定して、時系列を最新調査結果にまで延長して示した散布図である。各国民の価値観や行動様式が大括りの宗教的背景によって異なる点は当図録の読者ならお馴染みかも知れない(図録3942a、図録3942e、図録2318、図録2775、図録2784など)。また同じ調査による同性愛許容度の設問に特化した分析を図録2783に掲げている。

 カトリック・ヨーロッパとプロテスタント・ヨーロッパでは左下と右上という位置関係にあるが、それらの地域の植民地として由来を持つラテンアメリカと英語圏諸国もそれぞれX軸上の下方にあるが相互の位置関係は同じである点が興味深い。

 ロシアなどスラブ系諸国が人種的には近いと思われるヨーロッパ諸国と、実は、X軸方向の価値観では対極的な位置にある点も興味深い。

 しかし、ここで興味を引くのは、主要国の変化の方向である。国別の1から7までの数字は基本的に1981, 1990, 1995, 2000, 2005年, 2010年, 2017年にはじまる調査期(wave)に対応している(国により調査がない年や集計対象外の場合もある)。

 ヨーロッパ諸国はおおむね右上への方向をなお工業化、脱工業化と進展する近代化の王道に沿って進んでいるように見える(ドイツ、イタリアのように一時的に後退した国もあるが)。図上の位置から考えて、すなわち、ヨーロッパ諸国が一般的に向かっている方向の先に位置することから、もっとも「進んでいる」のはスウェーデンのように見える。

 プロテスタント・ヨーロッパはY軸上はそう変化せず、X軸上をさらに右シフトしているが、英語圏ではY軸上の右シフトもさることながら、むしろ宗教的性格が強いため下方に位置していたX軸上を上方シフトしているのが目立っている。

 長期的な方向性は、主要先進国を含むヨーロッパ、英語圏、そして日本については、基本的には右上の方向に向かっている。しかし、それ以外の地域(日本以外の儒教圏、旧共産圏、ラテンアメリカ、南アジア、アフリカ、イスラム圏)では、そうした一定方向へと向かう傾向は必ずしも認められず、むしろ、各国ごとにどうどう巡りとでも呼べるような動きとなっている点が目立っている。

 世界の論調に決定的な影響力を有しているのはG7などの主要先進国の有識者やメディアであるので、あたかも人類は脱伝統(脱宗教)、個人の個性尊重という価値観へと向かうのが当然という見方が支配的である。しかし、途上国やイスラム圏などの国民はそうした論調に沿った価値観変化をたどっているとは言えず、従来からの伝統を守るべきか、欧米的価値観に近づくべきかとまどっているとも見えるのである。

 日本は20世紀の間、プロテスタント・ヨーロッパの各国と同一の方向へと変化を続けていたが、21世紀に入った2000〜10年には、一時期、自己表現的価値よりはむしろ生存的価値の方向に揺り戻しが起こった。しかし、最近は、再度、プロテスタント・ヨーロッパの方向に向かっている。

 この点、他の中国、台湾、韓国といった儒教圏諸国は日本のような方向性は明確でなく、むしろ、同じような位置の周りを変動しているようである。このため、日本だけが儒教圏から離脱していくような動きになっているように見える。

 明治維新以後、「脱亜入欧」を国の方針として来た日本であるが、現在、価値観の上でも日本人の脱亜入欧が進んでいるといえよう。更新前の2005年期までのデータではプロテスタント・ヨーロッパと儒教圏は重ならないような図が描けたが(図録9458x)、今回の作図では日本は儒教圏からはみ出すようなかたちを取らざるを得なかったのである。

 米国は2005年期までは英語圏の下半分の所に位置していた。米国は伝統的な価値観をかなり重視していたのである。「文化的な変化を「アメリカ化」と捉えると間違える。産業社会一般は米国のようにはなっていかない。実際、米国式生活に対する多くの観察者(Lipset 1990, 1996)が論じているように、米国は「逸脱」ケースのように見える。米国人は他の同等に繁栄している社会と比較してずっと伝統的な価値観や信仰を有しているのである(Baker 1999)」(Inglehart and Baker(2000))。

 もっとも米国はX軸方向の自己表現的価値への方向性にはあまり進捗が見られない。2013年には最高裁が同性婚を認める判決を下したが国民の価値観全体はその方向には必ずしも進んでいない(こうした米国の状況は同性愛の許容度に関する図録2783、同性婚への賛否に関する図録8807、及びリプロダクティブ・ヘルス意識に関する図録2304参照)。

 旧共産圏は共産主義の考え方が権威を失ったためであろうが、もともとは高かった世俗的・合理的な価値から宗教回帰など旧式の伝統的な価値へとむしろ戻っている点が特徴である。

 旧ソ連諸国のうち、ロシア、ウクライナに加えて、同じくスラブ系のベラルーシ、及びラテン系のモルドバ、さらにバルト3国のエストニア、ラトビア、リトアニアのイングルハート価値空間における位置変化を示し、図録8975aで相互に比較した。ロシア人の価値観が大きく揺れている点については同図録の【コラム】を参照されたい。

 神の存在・死後の世界を信じているか(図録9520)で見た通り、イスラム圏やアフリカ諸国は、イングルハート価値空間上のY軸上の位置は、世界の中で最も世俗的な日本の対極に位置する最も伝統的(宗教的)な地域だと言える。

(注)「工業化は自己表現価値の上昇を促進しない(中略)このことが、工業化は普通選挙権をもたらすが、必ずしも民主主義をもたらさなかった理由である。普通選挙権は共産主義中国やソ連のような権威主義的な国家で採用されうるし、またしばしば採用され、自由民主主義が達成したのよりずっと高い投票率を一般的に生み出した。個人の自律や解放を強調する価値は初期の工業化社会では広がっておらず、そこでは、歴史的に民主主義制度とほとんど同じぐらいファシスト、共産主義が採用されたのだった。工業化社会の価値システムは「権威からの解放」というよりは「権威の合理化」を強調するのである。工業化が解放エートスを支持しないという事実は工業化と民主化が強く結びついてはいない理由を説明する。すべての工業化社会は大衆を動員し、普通選挙権やその他の様々な形態のエリート志向の参加を導入する。しかし、工業化は、民主主義的な形態と同じぐらい権威主義的な形態の大衆参加を生み出しがちなのである。(中略)脱工業化社会は伝統的権威と世俗的権威の両方からの解放をもたらし、解放エートスを勃興させる。これが脱工業化社会では自由民主主義が支配的となる理由である。サービス・セクターの勃興と自己表現価値の強化とは産業レベルでむすびついている。どんな社会でも、高所得、高学歴、サービス・セクター職業の労働者はその他の労働者よりも自己表現価値を強調する傾向があり、散布図上の右上の位置を占めることになる」(Inglehart and Welzel(2005))。

 図の中で位置変化をたどっている国は、以下の通りである。

プロテスタント・ユーロッパ ドイツ、ノルウェー、スウェーデン
カトリック・ヨーロッパ フランス、イタリア、スペイン
英語圏 英国、オーストラリア、米国
儒教圏 日本、韓国、台湾、中国
旧共産圏 ロシア、ウクライナ、モルドバ
ラテンアメリカ メキシコ、ブラジル、アルゼンチン
南アジア インド、インドネシア
アフリカ モロッコ、ナイジェリア、ガーナ、ジンバブエ

【参考文献】
  • Inglehart, Ronald and W. E. Baker(2000),"Modernization, Cultural Change, and the Persistence of Traditional Values"(American Sociological Review)
  • Inglehart, Ronald and C. Welzel(2005), "Modernization, Cultural Change and Democracy", Cambridge University Press
  • UNDP(2011), Human Development Report for the Russian Federation 'Modernization and Human Development.'


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(2013年6月25日収録、6月26日加筆、8月22日ロシアの反同性愛の動きを紹介、8月25日原資料をこの図録のタイトルの元となったUNDPロシア報告書掲載図からWVSサイト・数値データに変更、8月29日エジプト追加、2014年1月17日旧文化地図を自作の世界91カ国図に差し替え、2月17日コラム追加、3月2日・5日ウクライナ追加・含コメント、2023年3月26日コラム「ロシア人の揺れる価値観」を図録8975aに移す、3月31日更新、旧図録は図録9458xとして保存、4月4日アルゼンチン追加)


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