イングルハート価値空間は、世界各国の国民の価値観を、伝統的か合理的かの軸(Y軸)と生存重視(言い換えると物的生活重視)か自己表現重視(言い換えると個性重視)かの軸(X軸)とで分析・整理した散布図であり、Y軸(伝統←→世俗・合理)は近代化の第一ステップ、すなわち農業社会から工業化社会への工業化プロセスに対応し、X軸(物質←→自己表現)は近代化の第二ステップ、すなわちサービス経済化による脱工業化プロセスに対応する価値軸として捉えられている(詳しくは図録9458参照)。 図の旧ソ連諸国は共産主義時代には、脱宗教の社会主義原則からY軸上の位置が比較的上方だった。合理性重視の工業化意識が人為的にはぐくまれていたともいえよう。ところが1991年のソ連崩壊で体制移行国となってからは宗教回帰の流れとなり、Y軸上も下方へと大きくシフトした。 ロシアの動きでみると2-3-4、すなわち1990年代は迷っていたが、2000年以降には大きく下方シフトしている。これは、市場経済への移行にともなう社会の大混乱(図録8985参照)への反省に立ったものであると考えられる(注)。 (注)ロシアの思想変動については佐藤優「それからの帝国」(光文社、2023年)におけるかってのラトビア分離主義活動家で今はウクライナ侵攻というプーチン政権のロシア正教的聖戦を支持する活動を行っているサーシャとの対話からもうかがえる。 「マサル、混乱の90年代という言葉を聞いたことがあるか」とサーシャが尋ねた。 「ときどきロシアの新聞で目にするけれど、プーチン政権の強権的政策を正当化するためのプロパガンダ(宣伝)と理解している」と私は答えた。 「確かにその面もあるが、それより深い存在論的意義がある」 (中略) 「当時、僕たちは、市場経済になればロシアはソ連時代の停滞から抜け出すことができると楽観していた。(中略)潜在的なナショナリズムが顕在化してしまうとロシアは大混乱に陥る。したがって、ナショナリズムを潜在化したままにとどめることが、世界の安定のために死活的に重要になる。(中略)ロシアが置かれている状況はポストモダン的だ。(中略)新自由主義を超克するために、前に進んでいくのではなく、後退することがこれから真剣に模索されるようになるかもしれない。過去のモデルにわれわれの未来を託していくのだ。こういう反動的革命のモデルとしてロシアのナショナリズムを見直すことを僕は考えている」(p.271〜264)。 と言って、サーシャは、佐藤優の案内で、参照事例として明治国家の復古主義的人工ナショナリズムの象徴的存在である靖国神社を訪問することとなったのである。国家分裂の危険をはらむむきだしのナショナリズムを克服するためロシア正教的な精神を回復させる新たなナショナリズムをつくろうという考えは、案外、民衆の価値観変化に即した現実的なものなのかもしれない。 エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国では、スラブ系のロシア、ベラルーシ、ウクライナ、およびラテン系のモルドバと比較して、この脱宗教化シフトの程度は比較的小さかった一方で、スラブ圏・モルドバではそれほど目立っていないX軸方向の自己表現的価値へのシフトが大きくなっている。X軸方向の自己表現的価値へのシフトはサービス経済化にともなうもので西欧化の流れと言い換えてもよいだろう。バルト3国はかなり西欧に近づいたのである。 ロシア、ベラルーシ、ウクライナのスラブ圏3か国は脱宗教化の流れが急速に進んだのち最近はこの流れは止まり、むしろややX軸上の自己表現的価値へのシフトに移行してきているという点で類似した価値観シフトのパターンとなっている。 ロシアとウクライナとを比較すると、その他の国と比較して、かなり類似したパターンの価値観シフトが起こっており、まさに兄弟国ともいうべき状況をあらわしている。ただし、ロシアより非欧州的だったともみられるウクライナは、2010年代(段階6から7にかけた時期)にはロシアを飛び越えたX軸上の西欧化シフトを見ている点が目立っている。2014年の2月にウクライナで顕在化した親ロシア派を拒絶する親EU派の突出行動の背景にはこうした価値観シフトの対ロシア・ギャップがあると思われる。ここに、ロシアのウクライナ軍事侵攻のひとつの背景をうかがうことができよう。
(2023年3月26日図録8973のコラムからデータを更新して独立化、さらに図録9458のコラム「ロシア人の揺れる価値観」当図録に移す、11月19日佐藤優「それからの帝国」引用)
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