旧ソ連諸国のうちスラブ系のロシア、ウクライナ、ベラルーシ、及びラテン系のモルドバ、さらにバルト3国のエストニア、ラトビア、リトアニア、全部で7カ国の価値観の変化方向をイングルハート価値空間上に示した図を掲げた(世界全体のなかでの位置づけは図録9458参照)。

 イングルハート価値空間は、世界各国の国民の価値観を、伝統的か合理的かの軸(Y軸)と生存重視(言い換えると物的生活重視)か自己表現重視(言い換えると個性重視)かの軸(X軸)とで分析・整理した散布図であり、Y軸(伝統←→世俗・合理)は近代化の第一ステップ、すなわち農業社会から工業化社会への工業化プロセスに対応し、X軸(物質←→自己表現)は近代化の第二ステップ、すなわちサービス経済化による脱工業化プロセスに対応する価値軸として捉えられている(詳しくは図録9458参照)。

 図の旧ソ連諸国は共産主義時代には、脱宗教の社会主義原則からY軸上の位置が比較的上方だった。合理性重視の工業化意識が人為的にはぐくまれていたともいえよう。ところが1991年のソ連崩壊で体制移行国となってからは宗教回帰の流れとなり、Y軸上も下方へと大きくシフトした。

 ロシアの動きでみると2-3-4、すなわち1990年代は迷っていたが、2000年以降には大きく下方シフトしている。これは、市場経済への移行にともなう社会の大混乱(図録8985参照)への反省に立ったものであると考えられる(注)

(注)ロシアの思想変動については佐藤優「それからの帝国」(光文社、2023年)におけるかってのラトビア分離主義活動家で今はウクライナ侵攻というプーチン政権のロシア正教的聖戦を支持する活動を行っているサーシャとの対話からもうかがえる。

「マサル、混乱の90年代という言葉を聞いたことがあるか」とサーシャが尋ねた。
「ときどきロシアの新聞で目にするけれど、プーチン政権の強権的政策を正当化するためのプロパガンダ(宣伝)と理解している」と私は答えた。
「確かにその面もあるが、それより深い存在論的意義がある」
(中略)
「当時、僕たちは、市場経済になればロシアはソ連時代の停滞から抜け出すことができると楽観していた。(中略)潜在的なナショナリズムが顕在化してしまうとロシアは大混乱に陥る。したがって、ナショナリズムを潜在化したままにとどめることが、世界の安定のために死活的に重要になる。(中略)ロシアが置かれている状況はポストモダン的だ。(中略)新自由主義を超克するために、前に進んでいくのではなく、後退することがこれから真剣に模索されるようになるかもしれない。過去のモデルにわれわれの未来を託していくのだ。こういう反動的革命のモデルとしてロシアのナショナリズムを見直すことを僕は考えている」(p.271〜264)。

と言って、サーシャは、佐藤優の案内で、参照事例として明治国家の復古主義的人工ナショナリズムの象徴的存在である靖国神社を訪問することとなったのである。国家分裂の危険をはらむむきだしのナショナリズムを克服するためロシア正教的な精神を回復させる新たなナショナリズムをつくろうという考えは、案外、民衆の価値観変化に即した現実的なものなのかもしれない。

 エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国では、スラブ系のロシア、ベラルーシ、ウクライナ、およびラテン系のモルドバと比較して、この脱宗教化シフトの程度は比較的小さかった一方で、スラブ圏・モルドバではそれほど目立っていないX軸方向の自己表現的価値へのシフトが大きくなっている。X軸方向の自己表現的価値へのシフトはサービス経済化にともなうもので西欧化の流れと言い換えてもよいだろう。バルト3国はかなり西欧に近づいたのである。

 ロシア、ベラルーシ、ウクライナのスラブ圏3か国は脱宗教化の流れが急速に進んだのち最近はこの流れは止まり、むしろややX軸上の自己表現的価値へのシフトに移行してきているという点で類似した価値観シフトのパターンとなっている。

 ロシアとウクライナとを比較すると、その他の国と比較して、かなり類似したパターンの価値観シフトが起こっており、まさに兄弟国ともいうべき状況をあらわしている。ただし、ロシアより非欧州的だったともみられるウクライナは、2010年代(段階6から7にかけた時期)にはロシアを飛び越えたX軸上の西欧化シフトを見ている点が目立っている。2014年の2月にウクライナで顕在化した親ロシア派を拒絶する親EU派の突出行動の背景にはこうした価値観シフトの対ロシア・ギャップがあると思われる。ここに、ロシアのウクライナ軍事侵攻のひとつの背景をうかがうことができよう。

【コラム】ロシア人の揺れる価値観

 このコラムでは、ロシア人の価値観の揺らぎについて、2つの側面から、すなわち、「イングルハート価値空間」のX軸方向と関連する同性愛への態度の問題、そしてY軸上と関連する宗教観の変貌についてふれておこう。

同性愛への態度の問題

 2014年2月に開催されたロシアのソチ冬季五輪の開催式には、米、英、ドイツ、フランスなど欧米の主要国はロシアの同性愛宣伝禁止法や人権状況を問題視し、欠席を決めた陸上女子棒高跳びで五輪2連覇のエレーナ・イシンバエワ選手は、2013年8月、「同性愛者はロシアの伝統に反する」と発言し、欧米諸国から批判されたが、開会式で聖火ランナーの一人をつとめており、ロシアも譲れない立場にある。欧米と対照的に、アジアの近隣国、日本や中国などは出席に踏み切った。その背景には、同性愛に対する欧米とロシアやアジア諸国との意識差があると考えられる。

 ロシアでは、同性愛の合法化が進む欧米とは対照的に、2013年6月に「同性愛宣伝禁止法」が成立した。「この法律は「未成年者に対する非伝統的な性的関係のプロパガンダ(宣伝)」を禁止。同性愛者の人権擁護を求めるパレードやネットへの記載などを取り締まる。街頭での宣伝に対しては最大5000ルーブル(約1万4800円)、ネット宣伝には10万ルーブル(約29万5000円)以下の罰金が科される。外国人も罰金や国外退去などの処分の対象だ。(中略)この法律の制定にオバマ大統領は「私ほど怒りを覚えている人間はいない」と批判。ソチ冬季五輪ボイコットこそ「適切ではない」としながらも反発を強めている。ただ、ロシア社会の同性愛者への偏見や反発は根強い。全ロシア世論調査センターが法成立の直前に実施した調査によると、法案への支持が88%と大半を占め、反対はわずか7%にとどまった。」(東京新聞2013年8月22日こちら特報部)

 ロシアの反同性愛世論の背景としては、ロシア農民の伝統、ロシア正教会の反対、旧ソ連時代に犯罪、精神疾患と見なしていた経緯、少子化対策の思惑などが挙げられる(同紙)。こうした精神風土が同性愛ばかりでなく、一般的な価値観において、図のX軸上の左方向へのバイアスを生んでいると思われるが、問題は、方向性である。反同性愛の動きがX軸上をマイナス方向に向かっている表れであるとすれば、ロシアの価値観上の「ゆらぎ」を示していることになり、日本もまた例外ではなかろうという気がする。そうした意味からは、同記事がこう結ばれているのは興味深い。「同性愛者であることをカミングアウトしている前参議院議員の尾辻かな子氏は「日本の同性愛者は中ぶらりんの状況に置かれている」と語る「日本の主な政治家から、オバマ大統領のようにロシアの人権侵害を批判する発言が出てこないことも問題だ。国内の同性愛者の地位の向上にしっかりと取り組んでもらわなければならない」」

ロシア人の宗教観の変貌

 2014年2月、ソチ冬季五輪のフィギュアスケート男子個人ショートプログラムの直前、金メダル候補のロシアのプルシェンコ選手(31)は、「神が終わりを告げた」と述べ、ケガの痛みにより試合を棄権、同時に引退を表明した。神を引き合いに出すのが現代ロシア人の流儀となったのだろう。

 実は、社会主義体制の崩壊により、ロシア人の宗教回帰が進んでいる。米国のピュー・リサーチ・センターは、冬季五輪で関心が高まったロシアに関する報告書(2014年2月)で、ISSP調査の結果を整理している。属する宗派について、1991年には、61%が無宗教、31%がギリシャ正教と答えていたのが、2008年には、無宗教は18%、ギリシャ正教は72%と大きく逆転した。イスラム教徒も5%まで増加している(別の資料だと12%−図録9034)。

 また、同期間に、神を信じる者が38%から56%へ、宗教心があるとする回答が11%から54%へと大きく増加している。

 他方、米国人には意外なことだと思われるのか、こうした宗教心の高まりにもかかわらず、教会に月1回以上行くロシア人はなお7%と高くはない。ピュー・リサーチ・センターの報告書の表題も「ロシア人の宗教回帰、ただし教会へは行かない」である。


(2023年3月26日図録8973のコラムからデータを更新して独立化、さらに図録9458のコラム「ロシア人の揺れる価値観」当図録に移す、11月19日佐藤優「それからの帝国」引用)


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