西日本(九州あるいは九州の一部を除く)とその他の地域とが異なる分布を示す地域分布図の例を上にいくつか掲げた。

 最初は、化石でなく生体の頭長幅指数分布の分布図である。頭長幅指数とは上から見た頭骨について長さに対する幅の百分比であり、値が大きいほど短頭である(丸い頭である)ことを示す。この場合、朝鮮半島と同様に九州から中四国、近畿そして関東にかけて、短頭の地域が分布している。

 日本学術会議の研究班は1949年から4年をかけ全国5万6千人を対象に日本人の生体を計測した。小浜基次はこの結果の地方差から東北・裏日本型と畿内型に分類し、「その2つの型の分布状況を歴史的に解釈すると、まず、アイヌ系の東北型が広く日本に分布していた。その後、朝鮮半島から朝鮮系が渡来し、畿内、瀬戸内に本拠をしめ、一部は東進して南関東に達した。この畿内型の周縁や西日本の離島に東北型がのこっているのも、先住民であったからであろうといっている。上田常吉はこの後来の朝鮮系が弥生文化をもたらしたと解釈した。」(樋口隆康「日本人はどこから来たか」講談社現代新書、1971年)

 2番目に、血液型を形成するA因子(A型やAB型のもととなる)の割合の分布図を示した。図を引いた鈴木秀夫(1978)「森林の思考・砂漠の思考」によれば、A因子は東で単純な段階的な分布であるのに対して、西で入り組んだ複雑な分布であることから、西日本だけにA因子が比較的長く存在し、その後、ある時期から東方へそれが拡散を開始したためではないかと考えている(p.154、以下同様)。日本列島への渡来の時期については、縄文中期末の3500年前、あるいは中国の湖南省から朝鮮半島南部を経て2200年前の弥生時代のはじめに稲作と同時に渡来という2つが考えられるが、後者の可能性が強いとされる(同)。同じ元資料から都道府県別の血液型分布を図録7308に掲げているので参照されたい。世界分布から見て日本のA型がアジアでは珍しいという点は図録9452参照。

 3番目にはキツネ憑き、犬神といったある種の霊力が人にとりくつという「憑きもの」のパターンであるが、一時的に個人に憑くのでなく、家筋に代々伝わるという観念をもつ地域がある。これを分布図にしてみると九州東部、中四国、そして飛び地として北関東がくるようだ。「家筋を伝わる範囲のなかに、犬神がすっぽり含まれていることに注目される。家の意識が強いこと、それに犬に対する意識が強いことに、大陸的、遊牧民的臭いを感じないであろうか」(p.168)。関東地方の一部の山村の俗信として知られていた憑きものは、オサキ、あるいはオサキギツネと呼ばれ、オサキを持つ家は、オサキモチ、オサキ屋、オサキ使いなどといわれた。オサキは常には姿を見せず、金銀、米穀その他なんであれ心のままに他に持ち運ぶという。オサキモチを世間は避け、縁組することはなく、オサキモチどうしで縁組するという。

 以上の分布図すべてで、西日本の飛び地が北関東付近に存在している点が目立っている。

 4番目には音韻による方言地図を掲げた。松本清張の「砂の器」でよく知られるようになったが、東北弁と出雲弁とがズーズー弁と呼ばれる同じ音韻上の特徴を持っており、これが裏日本式方言とされている。

 鈴木秀夫(1978)は谷と沢など方言の分布でも西と東の対比を示しているが、日本語の成立過程において同様の構造を重視したのが小泉保である。彼は「縄文語の発見」1998年(青土社)の中で、顔を表すカオとツラなどこれと同様の方言の分布を示すものが多いこと(いわゆる方言周圏論)や上図と同じ音韻による方言分布をベースに日本語の成立を縄文語の発展として解き明かしている。小泉によれば上図の表日本式方言は、九州縄文語と裏日本縄文語が渡来語の影響で進化し、それが瀬戸内海沿岸沿いに近畿地方にまで広がって弥生語(後の日本語)となったものに当ると論じた。九州縄文語と裏日本縄文語の母音の音韻の微妙なずれが重合し上代特殊仮名遣の多母音構造が出来たと論じ、また、中国語の影響で弥生人が本来アクセントのない縄文語に四声アクセントを導入し、日本語の誕生に導いたことが、関西と関東の裏返しのアクセント(橋と箸など)から論証されるなど極めて説得的である。

 小泉によれば、東北方言は弥生語に制圧されずに残った「縄文語の直流」(p.161)であり、出雲方言も東北系であることは疑いないとする。「だが、なぜ出雲地方に東北系の方言が話されているのか、その理由については明確に論じられたことはない。大昔に東北の人々が大挙して出雲に引っ越してきたとは考えられないし、そうした移住を暗示するような記録も伝承も伝わっていない。とすれば、出雲地方の言葉はずっと以前から東北弁の系列に属していたと推定するのが妥当であろう。しかも、出雲地方と東北とのつなぎとして、新潟、富山、石川県にも東北型の方言特徴が残されている」(p.137)。

 5番目は食べ物文化圏である。ウドン食文化圏が讃岐うどんなど瀬戸内地方を中心としているところに小麦利用の大陸文化圏へのつらなりを見ることも可能である。

 ウドン食でも北関東の飛び地があることを鈴木はふれているが(p.166)、水沢うどん(群馬県渋川市伊香保町水沢付近で名物料理)のことであろう。ちなみに日本三大うどんとして、現状では「讃岐」(香川)と「稲庭」(秋田南部)はほぼ「当確」であるが、第三のうどんには、長崎県の「五島」、群馬県の「水沢」、富山県の「氷見」のほか、名古屋の「きしめん」が挙がることもあるらしい。

 5番目(その2)にうどん屋とそば屋の分布を掲げたが、東西文化圏の違いが明らかであるとともに、東日本にも、郡内(山梨)から多摩(東京)、埼玉、群馬にかけてうどん文化圏がけっこうまとまって分布していること、氷見うどんのような点在地もあること、長野は圧倒的にそば文化圏だが、西日本でも山間部にはそば圏が広がっていることなどが読み取れる。

 6番目は塩分の多い食品の消費量の分布図である(図録7758より)。第5図とかなりの程度重なっているといえる。塩分において隣接地域で最も食文化上の落差が大きいのは鳥取市の1.26と岡山市の0.77の間である。

 食べ物に関しては、さらに、トップ消費品目が多い地域の分布を図録7724に掲げたが、第5図の「ソバ食文化圏」及び「馴れずし・漬物・貝焼き文化圏」、第6図の塩分の多い食品の消費が多い地域、また第4図の音韻による方言地図の「裏日本式方言」及び「裏日本式方言と表日本式方言の中間」と重なるので参照されたい。カレールウの消費が多い地域も関係ありそうである(図録7745)。こうした食分布は弥生文化を受け継ぐ現代の日本文化に溶け込みきれない旧縄文文化地域の潜在的な心情によるものではないかと想像される。それは、全国的な減塩傾向の中で味気なさを感じている地域の代償消費としてあらわれているのではないかとする仮説を図録7758で述べておいた。食文化圏による日本文化起源の考察は納豆、さといも、パン、ソースについて図録7722でも行っているので参照されたい。

 7番目に骨粗鬆症で起こりやすくなるとされる中高年の大腿骨骨折の人口あたりの割合は西高東低であるという研究結果を示した。この研究では「地域間の偏りの原因は、はっきりしていないという。過去にはカルシウムの骨への取り込みを助けるビタミンKの血中濃度は東日本で高く、ビタミンKを多く含む納豆の消費量が関係するといった報告がある。研究グループは食生活が影響する可能性も考えられるとしている」(朝日新聞2017..10.13)。関連があるかもしれないとされる納豆消費の東高西低の状況については図録7722参照。

 8番目に「酒豪と下戸の分布図」を示した(この点を主題とした図録7334も参照)。

 元筑波大学教授の原田勝二氏が調べた酒豪型遺伝子(アセトアルデヒドを分解する酵素の力を増す遺伝子の型)の出現率によると、日本人全体の60%が「酒が強い酒豪」、35%が「そこそこ飲めるがあまり酒には強くない中間派」、そして残りの5%が「酒がまったく飲めない下戸」という比率になるという。この酒豪の比率をさらに都道府県別にまとめてみると、図のように「東北・北海道・九州・四国には酒豪が多く、近畿・中部・中国には少ない」。こんな興味深い“勢力分布図”が浮き上がる。

 こうした分布図が形成された経緯は原田氏の仮説によるとこうである。

 人間は本来、酒に強い酒豪ばかりだったが、アフリカ起源の現人類が黒人、白人、黄色人へと分岐するプロセスを経て、今から3万〜2万5千年ほど前に中国南部あたりで突然、遺伝子が変異し、酒に弱い下戸が生まれた。それが渡来人として日本に渡り、混血を重ねながら国内に広がった。日本に渡った渡来人は中央権力のあった近畿地方を目指しながら、九州北部から瀬戸内、近畿、中部などに多く移り住んだ。このため「移動ルート」にあたる地域には下戸が増えた。逆にこの「移動ルート」から離れている北海道、東北、九州南部、四国南部には、結果として下戸の遺伝子があまり入り込まず、もともと酒に強い酒豪が数多く残った。「東北や九州には酒豪が多い」。これまで何となく抱いていたイメージが、科学的に“証明”された格好となる。

 なお、原田氏が人種ごとに酒豪型遺伝子の出現率を調べたところ、白人(ドイツ、スウェーデン、フィンランドなど)、黒人(スーダン、ケニアなど)ともにほぼ100%だったが、黄色人種は明らかに低く、特に日本56.4%、中国59.0%、韓国71.6%など東アジア地域での低さが目立ったという(ちなみにタイは90.1%、マレーシアは94.2%、フィリピンは87.3%だった)。

 これと関連して図録1972には、「日本人はお酒が呑めないくせに、いや呑めないからこそ、世界一お酒が好き」ということを示す国際意識調査の結果を示した。中国南部で酒が弱い遺伝子に変異した理由は、アセトアルデヒドの存在がかえって稲作に伴う食中毒を防止することにつながるものだったためという説については図録1970のコラム2参照。

 9番目に所得のうちどれだけを貯蓄など消費以外に回すかについての指標(貯蓄率)を示した。日本海沿岸部で高く、瀬戸内海・太平洋沿岸部で低いという傾向が認められる。

 10番目には指紋のパターンの地域差を示した。渦状紋の出現頻度は西日本で高く、渦状紋に2個、蹄状紋に1個ある三叉の数の地域差のグラフを見ると北海道アイヌと沖縄地方では三叉示数が目だって少ない点が共通であり、縄文人的特徴がこの2地域になお残っていると解釈することも可能である。

 11番目には、各県日本人の遺伝子パターンが縄文人に近い沖縄県にどれほど近いかを示したものである。縄文人の影響度が高めに残るのは沖縄県と九州や東北の各県で、低めなのは近畿と四国だったことが分かる。「これまでの研究では、現代人に対する遺伝的な寄与は渡来人の方が大きく、縄文人の寄与は沖縄県の人で2〜3割、他の都道府県では1〜2割ほどらしい」(朝日新聞2020.10.21)。もっとも解析にあたった「大橋さんは「沖縄県以外の都道府県で縄文人の影響に差があると言っても、ごく小さく微妙なもの」と話す」(同)。

 最後に、縄文時代の中期頃、4000年前から以降の森林破壊の状況を地域別に示した図を掲げた。本格的に森林破壊がはじまったのは、稲作を伴う農耕による影響が顕著となった弥生時代に入ってからであり、今から約2200年前、北九州にはじまっている(p.100)。図には、その後、まもなく中四国、近畿へと森林破壊がひろがり、しばらく経ってから中部、関東、そして最後に東北への森林破壊が進んだことを示している。九州はむしろ東北と同じぐらい遅れて森林破壊がはじまっている点が興味深い。これまでふれてきた分布図と対応しているからである。

 万葉集でふれられた植物にはハギなど自然破壊をした後に成立するマツ林などの二次林などで目だつ植物である点とこの森林破壊の進捗とは整合的である(図録3990「古代人の関心植物・花」)。

 対照図として掲げられている英国の森林破壊が日本と異なる特徴としては、@広範になる前の一時的な森林破壊の時期が長い(これは日本の農耕が平野部に限られるのに対して丘陵部の森林を徐々に切り開きながら、森林に戻ることもあるなかで開拓が進んだから)、A南部で完全な破壊が早くからはじまっている(これは、家畜の飼育により一旦完全に破壊された森林は夏の低温もあって復活しなかったため)があげられる。

 なお、以上の共通した分布の特徴から、北方系民族が朝鮮半島から弥生人として大量に日本に渡来し、日本人の基層を形成したことを示しているかのようであるが、一方、日本人にとって馴染み深い4つのもの、すなわち、@夏を過ごすのにはよいが冬は耐え難い高床式の家屋形式、Aもともと温暖地域の作物である主食のコメ、B日本人が好んだ装飾品の勾玉(近隣アジア地域にはほとんど見られない)、そしてC冷水を浴びて身を祓い清める古くからの宗教的慣習である禊(みそぎ)、これらが揃って南方系の出自を予想させるものであることと矛盾する。こう指摘したのは、戦前の歴史学者の原勝郎である(原勝郎博士の「日本通史」祥伝社、原著1920年)。また、南方系の先祖から受け継いだ高床式の家屋を捨てなかったため、冬には、寒いので、十二単などにつながる極端な重ね着をして過ごしたと指摘したのは宮本常一である。

(2014年12月16日収録、12月29日南方系日本人起源説も紹介、2015年2月26日指紋パターン追加、2016年4月12日音韻による方言地図と小泉説紹介の拡充、4月17日塩分の多い食品の消費地図追加、2017年1月27日塩分の多い食品の消費地図での落差の激しい隣接地域、2月9日家計貯蓄率図、10月15日中高年の大腿骨骨折率図、2020年8月24日酒豪と下戸の分布図、2021年9月18日遺伝子縄文人近似分布、9月26日うどん屋とそば屋の分布)


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