A.最近の状況

 2024年9月の日本の失業率は2.4%で前月より0.1%ポイント改善した。

 米国は、2020年3月の4.4%に対し同年4月に14.7%と急上昇してついにリーマンショック時を超える高水準となったが、その後、急速に低下し、2021年12月以降は4%を切っていた最近は再度上昇傾向にあり4%を越えている。


 図からは外れたが2018年5月の日本の失業率は2.2%は1992年10月以来、25年7か月ぶりの低水準だった。前後の動きから見て短期的な要因によるものと考えられる。総務省は「人手不足により、特に男性が製造業や情報通信業など幅広い分野で仕事に就いている」と分析しているという(読売新聞2018.6.29)。

 やはり図から外れているが総務省によれば2018年1月の2.7%から2.4%への大きな低下は「寒波や豪雪の影響で27万人が就職活動をやめた」ことによる影響の可能性がある(毎日新聞2018.3.2)。これに対して同2月の2.5%への上昇は「新たに仕事探しを始めた人やより良い条件を求め自発的に離職した人が増えたことなどが背景にある」(同2018.3.30)と見られる。

 2020年の平均は2.8%と19年の2.4%から上昇したが、新型コロナウイルスの影響である。2019年には18年までの8年連続の改善は途切れたが1993年以来の低水準であることには変わりがなかった。なお、失業者数そのものの推移については図録2740参照。

 2019年には、海外ではリーマンショック後に経済不況で高まった米国の失業率が3.5〜3.6%の水準にまで低下した。欧州では2極化が進み、ユーロ危機を招いたギリシャでは16%、フランスで8%程度、イタリアで10%程度となっており、英国4%以下、ドイツ3%台と好調なのと対照的であった。

 2020年3月から欧米を中心に猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症の影響により、都市封鎖、外出禁止などの感染防止策が講じられており、失業率も上昇していると伝えられるが、スウェーデンを除くとそう顕著にはあらわれていない。

 若者の失業率など年齢別の年次推移(日本及び主要国)については図録3083参照。
B.景気意識と失業率

 主要国について経済が好調かどうかの国民意識の動きを示した(図録4512より)。

 毎年の動きとしては失業率がやはり国民の景気意識に大きな影響を与えていることがうかがえる(この点を図録4513では相関図で確かめている)。例えば、ドイツの失業率低下がドイツ国民の経済好調意識を支えていることは確かだろう。

 もっとも、日本のように水準的には失業率が低くても余り「好調」と思わない国もあれば、2016年当時のイタリアのように失業率が高くても「好調」と感じる国もある。
C.失業率について

 図録では各国の失業率の推移を図示している。ここでの失業率は、各国の労働力調査による結果であり、基本的な失業率の定義は共通であるが、国ごとに異なる調査方法、推計方法や軍人軍属を含めるかどうかなど細かい定義による差がある。

 各国調査よる失業率とOECDによって定義を揃えて計算された標準化失業率を以下に掲げたが、ほとんどの場合、0.数%、多くて0.9%ポイントの違いに過ぎない。

 失業率の定義は、完全失業者数÷(就業者数+完全失業者数)×100である。就業者数+完全失業者数は労働力人口ともいう。失業は、仕事がなく、仕事を探している者である。仕事がなくて、仕事をしたくとも、仕事を探していない者は、失業者にはカウントされない。


D.各国の長期トレンド

1.日本

 日本の失業率は高度成長期以降、1990年代前半までは、2%台という極めて低い水準を維持しており、欧米諸国が10%前後と高い失業率であったのとは対照的な姿を示しており、1980年代の世界的な日本礼賛ブームの1要因となっていた。また、他の諸国と比べ、失業率水準の安定性も目立っていた。この安定性の点では、失業率水準が4〜5%に上昇した現在でも、他の諸国と比べて日本の大きな特徴である。これは上の2つの図で各国の波の大きさを比較すれば明確に看て取ることができる。

 1990年代以降の失われた10年に日本の失業率は、これまでにない5%台まで上昇した。数次にわたる公共事業を中心とした景気対策は効果をあらわさず、赤字財政を深刻化させるばかりで、経済低迷は長く続いた。その後、97年秋の三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券と立て続けの大型金融破綻事件がきっかけとなり、98年の5月にかけて失業者が急増し、98年の4.1%、99年の4.7%と失業率はさらに上昇し、自殺者数の急増という社会ショックまでが生じた(図録2740参照)。

 その後、小泉政権による規制緩和と構造改革による経済再建策は、欧米型の社会への転換を促進し、景気が回復しても失業率水準はさらに上昇を続けるという観測もあったが、ついに2002年の5.4%をピークに03年、04年、05年と5.3%、4.7%、4.4%と失業率は低下に転じた。2005年衆議院総選挙の与党自民党圧勝の背景には、こうした失業率の低下傾向があったことはいうまでもない。06年はさらに4.1%へと低下した。

 日本の毎年の失業率の安定性の要因については、転換が進みつつあるとはいっても、なお、長期継続雇用という日本企業の特色が維持されているからであろう。長期継続雇用を前提に、社会制度が成り立っているので、他国と比較すると大した程度でないが、これまでの日本の失業率推移と比較すると急激といえる失業率の上昇が、自殺の急増に見られるような大きな社会ストレスに結びついてしまったと考えられる。

 なお、日本の失業率は、一時期、英、米、オランダ、スウェーデンを上回る時期があったが、現在では、主要国の中で最低のレベルまで改善しており、再度、低失業率の国の地位を取り戻している。

 ここまで失業率が下がってくると雇用情勢が好転しているというより、労働力不足が懸念される状況になっているといえる。労働力の過剰と不足の状況推移については図録3150参照。
2.欧米諸国全体

 欧米主要国の失業率は、1980年代前半には、8〜12%とおしなべて高い水準であったが、その後の展開は、フランス、イタリア、ドイツで高止まりを続ける一方で、これらとは対照的に、規制緩和などアングロサクソン的な自由主義経済に活路を見出そうとした米国、英国で、失業率が低水準化した。米国、英国の失業率は、一時期、失業率が上昇した日本とほぼ同等の水準となった。

 こうした対照的な状況について、アマルティア・センは、医療などの社会保障を優先する欧州と自助を保障するため失業率を重視する米国と、両者の政策の優先順位のちがいを対比的にとらえている。「...太平洋の両側に社会および個人の責任に対する態度に関して重要な相異があるのかもしれない。アメリカにおける公の優先順位にはすべての人に基礎的な医療を与えるという公約はなきに等しい。そしてアメリカ合衆国では何百万人もの人(実際には4千万人以上)には医療を受ける何らの制度も保険もないのである。...ヨーロッパでは健康保険は経済能力や病歴状況に関係なく市民基本的な権利とみなされており、アメリカのような状況は政治的に容認されない可能性が強い。...その一方、現在のヨーロッパでは容認されている二桁の失業率はアメリカでは政治的な爆弾になる可能性が強い。これほどの失業率は国民の自助能力を名ばかりのものにするだろうからだ。」「ヨーロッパは仕事のないこと−そしてその状態の増大−を驚くべき平静さもって受け入れ続けてきた。」(アマルティア・セン「自由と経済開発」日本経済新聞社、原著1999年)

 1990年代まで、フランス、イタリア、ドイツの失業率の水準は10%前後と概して米英に比較して高かったが、失業手当の給付というより就職促進対策を優先する積極的労働市場政策(ALMP=Active Labor Market Policy)などによって、21世紀に入り、改善方向を辿っていた。

 2008年後半からの世界的な金融危機と景気後退により、米国と英国はそれまで低かった失業率がいっきに上昇に転じ、再度、ヨーロッパ水準を超えている。

3.フランス

 フランス政府は、2006年になって、平均を大幅に上回る若者の失業率23%を改善するため若者雇用促進政策「初期雇用契約」(CPE)を立案した。

 これは、企業が26歳未満の若者を雇用する場合、最初の2年間は理由の提示なく解雇できるする新契約であり、2年間を試用期間とすることで、社会保障費などの会社負担を軽減、雇用意欲を促進しようという目的を持っている。なお、2年以内に解雇の場合は、働いた分の総給料の8%分が上乗せ支給される。

 2006年3月には、学生らが「解雇の乱発につながる」などと強く反発し、主要労組や学生団体がCPE撤回を求め、全仏で大規模ストとデモを行い、仏政府と全面対決の状況となり、その結果ついに政府は撤回を表明するに至った。

 失業率が10%を超えている中で行われた2017年5月の大統領選でル・ペン候補を降したマクロン大統領は、中道左派の立場から小さな政府志向の緊縮財政政策を実行したビル・クリントン、トニー・ブレア、ゲアハルト・シュレーダーらによる「第3の道」路線を踏襲しており、労働政策においても、大量失業者の解消に向け、ドイツ流の労働市場改革を推進しようとしている。

「硬直的で投資や雇用の足かせだと経済界に指摘される労働法の改革は、マクロン氏の大統領選の公約。政策の肝だ。従業員の解雇が係争になって不当だとされた場合、補償金に上限を設ける。国際的に活動する企業が、仏市場だけで不調だった場合も解雇が正当化される――といった内容を柱に、完全施行に、ほぼこぎ着けた。ただ、改革が「労働者保護が不十分」とみる人が、半数超に達したという世論調査もある。(中略)ドイツ人の専門家が仏メディアで「ドイツの方がフランスより社会の格差が大きい。『ドイツ・モデル』は、よくよく考えたほうがいい」と警鐘を鳴らしたこともある。それでも、マクロン氏は「大きな変化をもたらす改革だ。大量失業を減らし続けたい」「怠け者にくみすることはない」などと譲る気配はない」(朝日新聞2017年9月28日)。

4.ドイツ

 ドイツは東西ドイツ統合以降、失業率が上昇傾向にあり、2005年には10%を越えたが、その後、ハルツ4法など労働市場改革が進んだこともあり、失業率水準はかなり低下した(統一通貨の下での有利な為替条件による輸出の好調ももう1つの要因である点は図録5040参照)。

 ドイツは手厚い失業手当などの生活保障によって下手に働くより失業していた方が有利との条件から失業率が高止まりしていると考えられていた。

 そこで2002〜06年にハルツ4法が制定され、失業者の起業と再雇用に対する支援策が強化されるとともに、従来の雇用保険による失業給付の大幅な引き下げと給付期間の短縮(45歳以上は1年以上だったが、多くが1年に短縮)が実施された。また失業手当とは別に、希望する職ではない低賃金・不安定雇用であっても働き先を指定されたら断らないで就業するという条件で最低限の生活を確保する手当(月5万円程度)が政府・自治体から直接受けられ、自ら希望する職を目指して職業訓練する余裕を与えるという仕組みが整備された。これにより若者や外国人など従来失業を選択していた層が職に就き、このため失業率が低下したと見られる。労働政策として生活保護が制度化されたようなものなのでワーキングプアを温存するという批判がある。実際、ドイツの所得格差の拡大は欧州の中でも目立っているとされる(図録4660参照)。

 2005年に失業率がピークに達したのは、それまでの上昇傾向の結果であるとともに、ハルツ改革の一環として、2005年1月1日から、それまで就業能力はあるが職探しをせず日本の生活保護に当る「社会扶助」を自治体から受けていた者が給付を受け続けるためには、新たに失業登録が義務付けられるようになったためでもある。これは職安から長期失業者に給付される「失業扶助」(通常の失業手当より低額)との統合を図るためであった。いわば、就業能力のある者に強制的に職業紹介を受けさせることによって失業者を減らそうと意図だったが、一時的に、失業者は急増したのであった。このため、ハルツ改革に着手した与党SPDのシュレーダー政権は国民の反感を買い、結果として、同年、SPDは総選挙に敗北し、CDU党首であり、初の女性首相となったメルケル政権の誕生につながることになったのである。

 ハルツ改革は国民的関心事だったので、「ハルツ4」というボードゲームまで発売された。「04年発売の「ハルツ4」は、シュレーダー前政権下の身を切る労働市場改革を扱った。財政悪化で「欧州の病人」と呼ばれたドイツで、福祉制度を駆使しながら正規雇用の枠を競う。皮肉がきき過ぎたのか人気はいま一つだったようだ」(朝日新聞2015年12月4日)。

5.オランダ

 1970年代、北海におけるオランダの天然ガスの発見とその輸出ブームは、オランダに膨大な為替収入をもたらし、一方で、政府支出の膨張によって社会福祉制度が次々に拡充されたものの、他方で、為替レートの過剰な上昇により、他の貿易部門、特に製造業部門などの国際競争力を阻害し、ブームが去って一次産品の価格が下落したとき、財政支出が膨張したまま、企業の国際競争力は失われ、失業者は増大し、オランダ経済は大不況に陥った。1983〜84年の急激な失業率の上昇は、こうした状況をドラマチックに示している。豊富な資源開発の帰結としての経済低迷をあらわす「オランダ病」という言葉が経済用語として国際的に定着している。

 オランダのドラマはそこで終わらなかった。その後、全世界が「オランダの奇跡」と呼ぶほど経済の復活を遂げたのである。失業率は、図で見るように、1980年代後半から1990年代にかけて着実に低下し、1999年からは日本のレベルを下回っている。こうした経済再生の要因としては、賃金抑制の政労使合意とパートタイム労働の正規化の2つがあげられる。

 どん底経済から再起をかけて、オランダの政府、経営者団体、労働組合全国組織の三者は、1982年から1983年にかけて、いわゆるワッセナー合意に達した。 ワッセナー合意の要点は、
(1) 労働組合は賃金抑制に協力する。
(2) 経営者は雇用の維持と就労時間の短縮に努める。
(3) 政府は減税と財政支出の抑制を図り、国際競争力を高めるための企業投資を活発化し、雇用の増加を達成する。
というものだった。

 オランダでもパートタイム勤務の社員が冷遇されていたが、パートタイム勤務の社員が待遇面で受けていたいろいろな差別を禁止し、これがオランダ・モデルと呼ばれるようになった。すなわち、
(1) 同一労働価値であれば、パートタイム労働社員とフルタイム労働社員との時間あたりの賃金は同じにする。
(2) 社会保険、育児・介護休暇等も同じ条件で付与される。
(3) フルタイム労働とパートタイム労働の転換は労働者の請求によって自由に変えられる。
という制度になった。この結果、夫婦の自由な勤務形態の組み合わせが可能となり、雇用が促進されたという。

 一時期、日本を大きく下回る失業率水準となったことから、オランダ・モデルが注目されたが、近年は、再度逆転しており、注目度はひと頃ほどでない。
(その他)

6.スウェーデン

 中小企業の労働者の比率は日本が70%であるのに対し、スウェーデンでは38%と低い。これは、労働者の理解と参加の下に、「産業は福祉の糧」「大企業の育成優先」という考え方を取り、低関税政策、連帯賃金制度(企業規模によらず同一職種同一賃金)を導入して企業規模にかかわらず世界に通じる生産性の高い企業が生き残る産業政策をとったためである。生産性の低い中小企業で失業した労働者は福祉など公共セクターで吸収した。この結果、世界最大の重電メーカーABBやボルボ、サーブ、スカニア(以上自動車)、エリクソン(通信)、エレクトロラックス(家電)、スカンスカ(建設)、イケア(家具)、H&M(衣服)といった世界の一流企業を生んでいる。

 こうした産業形態の下、他の欧米主要国とは異なり、1980年代までは、日本並みの失業率水準を維持し、高い社会保障水準と相俟って、模範的な社会民主主義国と見なされていたスウェーデンであるが、高齢化の進展により社会保障を担う公務員の人的コストが膨らむ一方で、冷戦後のグローバリゼーションのなかで、高い税負担、社会保障負担に耐えかねた企業が本社を海外移転させるなどの動き(注)の中で、経済は不調となり、失業率も1990年代には、急速に上昇し、10%前後となった。その後、種々の制度見直しなども進み、失業率も低下したが、欧州債務危機で再度失業率は再び高水準となった。

(注)早い段階でイケアはオランダに本社を移していたが、重電のアセア(改名後はABB)は1989年にスイスのブラウン・ボベリと合併した際にスイスに本社を移転。その後、医薬品のアストラの英国への移転(99年英ゼネカと合併)、エリクソンのロンドンへの移転(99年)などが続々と発生した。

 スウェーデンにおいては1984年以降失業率の上昇や下落などの景気循環と出生率の上昇下落が連動するようになった状況については図録1550参照。また、産業政策と社会保障がかみ合っていた時期には低かった家計貯蓄率も経済の不安定化で上昇に転じた様子は図録4520参照。また、近年、租税負担率は維持しているものの社会保障負担率を急速に低下させている様子は図録5100参照。

7.韓国

 経済成長に伴って、失業率も低下傾向を辿り、1995年前後には、日本より低くなった韓国であるが、1997年のアジア通貨危機の影響は日本と比べると格段に大きく(いわゆるIMF危機)、98〜99年には、6〜7%に急上昇した。しかし、その後、経済再建は急速に進み、その後、再度、失業率が日本を下回る状況となった。

8.ロシア

 ソ連邦崩壊後、経済状態が極めて悪化し、ロシアの失業率は13%を越えたが、近年は、石油・天然ガスによる経済回復により、失業率はドイツ、フランスを下回る水準にまで低下した。

(2005年10月9日収録、2006年3月31日更新、4月21日更新・ロシア追加、2007年、5月22日ドイツの新政策のコメント追加、2009年11/16 2007年以前データ更新、「欧米諸国全体」コメント改訂、2013年スペイン・ギリシャの参考表追加、2014年10月5日経済状況の意識との関連図を追加、2015年1月8日ドイツのコメント追加、9/9ドイツ・コメント補訂、12月4日ボードゲーム「ハルツ4」紹介、2016年8月22日自国景気意識推移グラフ追加、2017年2/24スウェーデン・コメント補訂、6月7日経済好調意識と失業率との相関図を更新し図録4513として独立させる、9/28フランスのコメント補訂、2018年3/3レイアウト改善、コメント補訂、2020年5月8日米国失業率、6月5日米国失業率、これ以降更新のみは略)


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