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日本人の好きな料理の第1位はすし(寿司、鮨)である(図録0332)。また近年では、健康志向のひろがりにより回転寿司をふくめ世界中にすしブームが広がりつつある(韓国は図録0331、アジアは図録8035)。 そこで、長いすしの歴史を上の東京新聞大図解からの抜粋引用を参考に簡単に振り返って見よう。 日本のすしの原形は、淡水魚などを蒸した米とともに長期間塩で漬けこんで乳酸発酵させた保存食品、ナレズシであり、東南アジアや中国から伝わり、日本に古来より存在している。現代に残っているナレズシとしては琵琶湖湖畔の「近江のフナずし」が有名である。この場合、発酵しビチャビチャになった米飯部分は捨てて魚肉部分だけ食べる。 すしの起源は保存用の塩が得にくい東南アジアの内陸部で季節的に往来する川魚をコメのでんぷんの乳酸発酵を利用して保存したことによると考えられる(篠田統1975、p.185〜186)。 タイでは、2011年、7月から上流で降り続いた大雨による洪水により、首都をとりまく広い範囲で冠水し、10月に入って、自動車・電機メーカーなど日系企業が相次いで操業停止に追い込まれた。東南アジアでは、例年、雨期から乾期への変わり目(タイでは10月)は雨期末の雨による洪水のシーズンであり、今回の被災は洪水の程度が大きかったに過ぎない。タイには「水がひけばアリが魚を食べ、洪水の時は魚がアリを食べる」ということわざがある(注)。世界の中で東南アジアで雨期から乾期にかけて大量に捕獲される淡水魚の保存方法として魚醤とともにナレズシが発生したと考えられる。 (注)このことわざが本当に人口に膾炙しているかを元タイ在住の商社マンだった友人に頼んで知り合いのタイ人に尋ねてもらったところ知っている人もいれば知らない人もいるという状況だった。タイでもコロナの影響が深刻だが、観光不振で失業が増えているチェンマイ在住の日本人出家僧によれば、タイ人の間では経済をもっと優先させようという声はきかれず、むしろ「田舎に帰ればカオニャオとナンプラーくらいはあるから」と言って健康を優先させた厳しい自粛生活を送っているという。内陸の町でも魚醤(ナンプラー)に親しんでいることが分かる。なおカオニャオは現地のもち米のこと(ヤフーニュース2021.2.22)。 「魚醤の原料は淡水に生息する小魚であることが多い。骨のある小魚をそのまま料理で食べることは少ない。この魚が魚群を作る時期に集中して漁が行われる。大量に捕れた小魚を保存し、年間を通して食べるために加工したものが塩辛や魚醤なのである。この漁獲の時期はアジアの気象現象であるモンスーンの影響を受けていた。モンスーンと密接に関係する農業形態といえば水田稲作である。東南アジアの大陸部では雨期に増水した河川から水があふれて水田に流れ込み、そこで魚が増殖する。いわば「水田漁業」とでもいうべき漁業形態が成立しているのである。米飯と魚と塩で作られるナレズシも魚醤も、水田漁業のなかで発展していったと考えられる。日本の古代でもナレズシには淡水魚が用いられていた。すると、少なくともナレズシは水田稲作に伴って伝播した可能性がある」(石毛直道2017)。 室町時代には、ナレズシでは食べなかった飯を食べるものにしたナマナレ(生成)というすしが発明された。アユ、ウナギ、コイなどの魚やタケノコなどの野菜を飯と塩だけ使い短期間の発酵で酸味を帯びさせた食品である。さらに塩漬け魚に糀や野菜、あるいは酒を加えることによって、発酵を早めた改良型のナレズシが生まれた。北海道から北陸日本海側にかけてのイズシ(秋田のハタハタずし、北陸のカブラずし)もその1つである。 そして、江戸時代にはいると、酢を飯にあてる即席ズシが開発され、当初は邪道とされていたが、18世紀以降、江戸から流行し、早ズシの主流となる。酢飯を箱に詰め、その上にすし種の魚貝をのせ、落しぶたをして上からおもしをかけて数時間押すという箱ずし(押しずし)が考案され、上方名物となった。また、江戸中期には江戸前の魚が珍重され、19世紀はじめには、ナレズシ、押しずしをファーストフード化した食品として、酢飯に刺身をのせた握りずしも登場した。それでも、最初は魚介類はすぐに悪くなるので、醤油漬けのすしねたを使っていたといわれる。 江戸時代の握りずしは、超高級すし料亭と路上の屋台店の両方で商われていた。屋台では、あらかじめすしを握って並べておき客はそこから選んで好きなすしを食べたらしい。そして料亭型すし屋は屋台ブームを取り入れ店内に屋台スペースをつくり、現代のカウンター方式のすし屋へと発展したという。回転寿司は、握りずし発祥時の屋台方式の現代的再現だといえる(日比野1999)。 幕末の風俗誌である「守貞謾稿」(1853(嘉永6)年、1867(慶応3)年までの追記あり)によれば、江戸で登場した握りずしは江戸では京阪風の箱の押しずしを駆逐し、江戸の握りずし、京阪の箱ずしというパターンが成立した。味づけも東西で次のように異なっていたという。「京阪の鮨酢味強くすを良とす。近年、江戸の製酢味はなはだ淡し。鮨の本意を失す。」(喜田川守貞1853、p.295)なお、当時の京阪と江戸の鮨の対比については【コラム】参照。 江戸時代以降、全国各地で、ナマナレの各種改良型に加え、巻きずし(関東のノリ巻き、関西の太巻き)、棒ずし(京都のサバずし)、ちらしずし、いなり寿司(名古屋起源が通説)など多種多様な寿司が新たに開発される中、基本的には、明治から大正にかけて「関東の握りずし、関西の箱ずし」という状況が続いていたといわれる。 すしといえば、活きのよさがいのちの握りずし、あるいは握りずしを中心とする江戸前寿司という考え方が食にうるさい文化人などの発言もあって普及していった。食通文化人の代表格である魯山人(1952〜53)はこう言っている。「江戸前寿司の上方寿司と異なるところは、材料、味つけおよび技法の相違にある。これはいうまでもないが、まず第一は生気のあるなしである。江戸前寿司は簡単で、ざっくばらんな調理法を用い、お客の目の前で生きのいいところをみせ、感心させながら食べるところに特色がある。それに、まぐろの脂肪がすこぶる濃厚でありながら、少しも後口に残らぬという特徴があって、まさに東京名物として錦上花を添えている。このごろ京阪流箱寿司は、上方の何処の地方にもはやっているが、なれ寿司を基調とする調理に意気のない野暮ったさが、即興に生きる江戸ッ子には、とんと迎えられる様子もない。わたくしは当然のことと、あえて訝しく思わない。(中略)なにはともあれ、大阪の箱寿司が握りに圧倒されたのは、寿司食いの勝ちで、寿司屋の負けである。」 すしはもともとは保存食品だったので、すし屋(握りずしの外食店)であっても、長くすし弁当の精神を引き継いでいた。東京江戸橋「吉野鮨」主人吉野f雄(ますお)によれば、「すしは、たとえ握りずしでも、馴れる時間が必要だ。握るそばから食べていくのは屋台店のことで、一軒の店をもつ以上、出前で配達して行った、ちょうどそのときにうまくなければいけない。このごろのように、ちゃんと一軒の店をかまえていながら、握るそばから食べるナンて風は、大正十二年の東京大震災以後の話だ。あれで屋台店がなくなって、一軒の店をかまえたのはよいが、屋台店の風まで店にもちこんじゃったのだ。(中略)久保田万太郎がすしの赤貝をのどにつめて死んだ由。昔はあんな粘るものは必ず酢(塩をきかせた)でサッと洗ったものだが、近ごろは新鮮さを大切にしすぎて、その手続きをしないから、あんな悲劇がおこる。」(篠田1970) 戦後のコールドチェーンの発達により生イワシまでもが寿司ネタとなる状況を生んでおり、保存食品でありながら保存食品を脱した食味を求めるのが日本におけるすしの本質であるとすれば執拗なまでに究極の姿を追求しているといえる。 日比野(1999)は、こうしたすしの歴史を総括し、飯を食べるナマナレが「すしの第一革命」、酢の使用による早ズシが「すしの第二革命」、そして、各地に根づいたスシ文化に対する握りずしの全国展開を「すしの第三革命」と呼んでいる。握りずしの全国展開は、@明治政府による東京文化の推奨、A関東大震災や戦災によるすし職人の地方流出、B握りずしのみを除外とした飲食業営業禁止(1947年飲食営業緊急措置令)を通じて進んでいったとされる。 すしの発祥地である東南アジアではすしの古形がかろうじて保たれているが、伝播の経由地である中国ではすしは滅んでしまった。それでは、何故、最後に行き着いた日本だけで、すし文化がこのように多彩な発展を遂げたのであろうか。 ひとつの要因は、日本は、島国であることから大きく変遷をとげる大陸文明を強制的に受け入れる必要がなく、そのため、古代の習慣や文化を今に伝えている稀有な国だからである(図録0214の(6)参照)。 もう1つの要因は、肉食忌避が長く続いたからである。「宗教上の理由」から肉食を避けてきた日本人は、その結果の食生活の味気なさを何とか克服するため、うま味をもたらすような食材の工夫や発酵の活用によって和食と呼ばれる独特の料理体系を長い期間をかけてなんとか開発した。すしはその代表例ともいうべき食品なのである。 和食の基礎となっているだし(出汁)自体、同じ理由で発達したものであるが、だし文化を応用したカレーやラーメンが明治以降の外来食品にもかかわらず、新しい日本食として発達し、世界から評価されるようになったのも、江戸時代までに培った非肉食文化の蓄積が効いているからだと考えられる(図録0332、図録0208参照)。 日本人は長い時間をかけたこうした取り組みの結果として、たまたま、健康や動物愛護、そして環境に良い食生活を実現できたわけであるが、それが今頃になって肉食を反省することとなった欧米を中心に、世界中で日本食ブームが起きている理由となっているといえよう(環境と肉食の関係については図録4183参照)。肉気や魚味を油揚げやかんぴょうで代替しようとした歴史(図録7714、図録7839)からうかがえるように、日本人は、おいしいものが食べられなかったのでおいしさに敏感になっただけであり、もともと舌が肥えていたわけではない。
(2023年9月20日収録、図録7762から記述を独立化、《以前の履歴:2015年9月3日コラム3追加、2018年6月3日石毛引用、2021年2月22日チェンマイでも魚醤が親しまれているエピソード、2023年5月8日篠田統(1975)「大陸のすし」》)
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