2月11日は「初午いなりの日」である。全日本いなり寿司協会が、各地の稲荷神社で五穀豊穣を願う祭りが行われる初午(はつうま)となる日に近い国民の祝日である建国記念の日に合わせて定めた。

 全国で広く好まれているいなり寿司であるが実は地域によって形が大きく違っている。ウェザーニュースが行った独自調査によると、東日本では圧倒的に長方形(俵型)が多く、西日本は三角形、特に近畿・四国では過半数を占める結果となった(調査結果といなり寿司の起源についてのウェザーニュースの記事はここ)。

 発祥が名古屋とも江戸ともいわれる稲荷寿司は玉子や海苔の巻寿司のように油揚で巻いた寿司として生まれ、稲荷信仰とからみ、また油っぽいので下図のように独自の屋台や振り売りで売られ、わさび醤油で食された。油揚げをキツネが好むとされたことから「お稲荷さん」、「篠田鮨」の名がついた(篠田鮨は安倍晴明を生んだとされる信太(しのだ)の森の女狐「葛の葉」の伝説にちなむ)。守貞謾稿での言及は図録7762コラム参照。

 稲荷寿司は1845〜46年に江戸で大流行し、暮れから夜にかけて往来のはげしい辻々で商われた。当時の流行歌に「坊主だまして還俗させて稲荷ずしでも売らせたや」とあり、堕落した僧侶を稲荷信仰でよみがえらせるという含みがあるという。下図の稲荷鮨は海苔巻などのように細長くなっており、一本16文、半分8文、一切れ4文と切り売りされていた(「近世商賈盡狂歌合」1852年)。


 現在は関東の四角、関西の三角と形状が変化しているが、もともとの細長い稲荷鮨は、なお、埼玉県熊谷市妻沼の郷土料理としてその形をとどめている(ここ)。

 稲荷寿司は「低廉」を理由に天保の改革の贅沢禁止令の中で生き残り、同様の趣旨から実施された江戸歌舞伎の江戸払いにともない、干瓢巻きとともに歌舞伎の幕間弁当として急速に地方に広がったともいわれる。確かに現代でも稲荷寿司と干瓢巻きのセットが助六寿司として全国化している状況にはこうした普及の事情があったと考えると理解しやすい(日比野光敏「日本すし紀行−巻きずしと稲荷と助六と−」旭屋出版、2018年)。なお助六寿司の語源は、揚げと巻きが市川團十郎家のお家芸の一つ「助六」の愛人の花魁「揚巻」を連想させることによっている。

 篠田統氏は「図説江戸時代食生活事典」の「稲荷鮨」の項で「もとは魚味の代用として油揚を使ったと思われる」と言っている。腐りやすい魚の保存手段として東南アジアで生まれた「すし」は、歴史的、地理的に次々と原型から離れた「似て非なる」新食品として生まれ変わって来たが(図録7762参照)、稲荷寿司は、ついに、魚介類からも完全に離れ、それでもやはり「すし」である点に「究極の寿司」の姿をうかがうことができよう。干瓢巻きも魚の食感を干瓢で代替した点ではかなり大胆な変転だといえるが、まだ、海苔という海産物をまとっている分、原型を保っているのと比べるとその感を強くする。私の知る限りでは四谷志乃多寿司の稲荷寿司、干瓢巻きが最良である。

 江戸時代の江戸前寿司については図録7839参照。

 ウェザーニュースが取材した歳時記×食文化研究所の北野智子さんによると、江戸後期に忽然と現れた“謎の寿司”であるいなり寿司については、もともと棒状だった寿司を、いつ、誰が、四角形や三角形にしたのかは謎であり、また、いなり寿司の東西での形の違いについても、その理由は諸説あり、はっきりしていないという。

「関東の長方形については、商売繁盛の神として有名な稲荷神はもともと五穀豊穣の神を祀る田の神信仰に由来し、『稲生り(いねなり)の神』とされていることから、米を入れた俵に見立てているとの説があります。関西の三角形については、稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社のある稲荷山の形に見立てた、狐の耳の形に見立てたなどの説があります」(北野さん)。

(2021年2月11日収録、図録7839の一部を独立化)


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