家計調査によって、肉消費に占める牛・豚・鶏の割合について、地域別(県庁所在市)別の53年間の変遷を追ったグラフを作成した。どの地域でどの肉が好まれているかについてはデータの表現法を変えた図録7711も参照されたい。

 地域別の飲み物(緑茶、紅茶、コーヒー)の変遷については図録7238f参照。地域別のだし材料(こんぶ、煮干、かつお節)の変遷については図録7238j参照。

 56年前(1963〜65年)には、牛肉と鶏肉の西高東低、豚肉の東高西低の地域構造が明確だった。ところが、56年後の現在(2019〜21年)には、そうした傾向は残っているものの、かつてと比べると明確ではなく、食のパターンの全国平準化の進行をうかがわせる結果となっている。

 全国平準化の進行は、こうした東西といった大きな地域別の傾向の変化とともに近隣県どうしの差異が小さくなった点にもあらわれている。図では近隣県における割合の差をあらわすギザギザがずいぶん滑らかになっていることからそれがうかがわれる。

 平準化の指標としては、データのばらつきの程度をあらわす変動係数が使われることが多い。肉の地域別消費額の変動係数を調べてみると、次図で見るように、牛肉、豚肉、鶏肉の値は、それぞれ、この50数年に3割減、8割減、7割減とすべてで大きく値を減少させている。特に、豚肉と鶏肉のばらつき度の低下はめざましい。これらと比べると、牛肉は、なお、東西差がかなり残っているといえる。なお、最近6年間でこうした傾向はなお進行していることもうかがわれる。


 次に、肉の種類ごとに見ていこう。

 牛肉消費は、かつては、北陸、近畿、徳島の3地域で特段に多かったが、今は、北陸や徳島は目立たなくなったため、近畿の府県が軒並み40%以上と(かつての軒並み60%以上よりは縮小したものの)国内で最も牛肉好きの地域となっている。なお、牛肉消費は西高東低の地域構造をもっているが、九州地方は西日本の中では消費が比較的少ない点が昔も今も変わらない特徴である。

 山形牛というブランドがあるが、東北の中では山形はかつても今も牛肉消費が多いことが目立っている(50年前は牛の割合が50%を超えていた)。

 米沢にお雇い外国人の英語教師として招かれた英国人チャールズ・ヘンリー・ダラスが、故郷を懐かしみ、一緒に連れてきたコックの万吉に牛肉を調理させ食べたのが、松坂牛、神戸牛と並ぶ日本三大和牛に数えられる「米沢牛」の始まりといわれる。明治32年の奥羽本線の開通を機に流通体制が整備され、首都圏への大量供給もはじまり、米沢牛のブランドが確立していった。米沢以外にも牛肉生産が広がり、山形牛というブランドもできた。また、生産拡大にともなって、地元での牛肉消費もさかんとなり、米沢市周辺の置賜地方から山形市周辺の村山地方にまで広がった(野瀬泰申「食は「県民性」では語れない」角川新書、2017年)。

 宮城、山形、福島など東北各県では芋煮会の行事が秋の風物詩となっており、その場合の芋煮は豚肉みそ味が主流である。同じ山形県でも、養豚がさかんとなった庄内地方では豚肉みそ味の芋煮が中心であるのに対して、内陸部では、牛肉しょうゆ味の芋煮が主流となって言う(注)。それも、こうした事情によるものである。

(注)山形では「芋煮の味付けをめぐって地域対立が起こる」(ソニー生命「47都道府県別生活意識調査2023」の「県民あるある」設問)

 なお、山形名物の芋煮会の発祥が地元食材の里芋と北前船が運んだ棒鱈とのむすびつきによるものだという経緯については図録7810を参照のこと。

 豚肉消費は、かつては、85%の青森市から14%の徳島市、松山市と食べる地域と食べない地域との差が71%ポイント大きかったが、今では、新潟市の59%から京都市の34%まで25%ポイントの差にまで縮まっている。

 「西の牛肉、東の豚肉」というコントラストの理由としては、朝食における「西のパン食、東のごはん」(図録0329参照)と同様に、欧米風のハイカラな食を関西人が好むからという考え方もできるが、豚肉料理が東京から同心円状に普及したからという見方もある。

 そもそも明治維新以降、肉食が解禁されて、まず普及したのは牛鍋などに代表される牛肉であった。屋台の牛飯(牛どん、俗称「かめちゃぶ」)や兵隊食として牛肉の大和煮缶詰が普及したのも大きかった。欧米では牛肉がメインだった影響であろう。残飯のエサで飼育される豚の肉は不浄感から嫌われたということもあっただろう。軍隊食から普及したカレーライスの肉も明治期にはまだ牛肉だけだった(森枝卓士「カレーライスと日本人」講談社現代新書、1989年)。

 こうして、牛肉食は東京から広がっていった(明治期東京の飲食店分布は図録7842)。しかし、牛肉食の普及とともに価格も上がっていった。牛肉100gの値段は大正2年、7年、10年、昭和2年に、それぞれ、9銭、14銭、21銭、40銭と高騰した(週刊朝日編「値段の明治大正昭和風俗史<上>」朝日文庫)。

 すでに明治時代には洋食屋でナイフとフォークで食べるポークカツレツはできていたが、さらに箸で食べる2つの画期的豚肉料理であるカツカレーとカツ丼が東京で大正7(1918)年以降に相次いで誕生した。すなわち、前者は浅草の洋食屋河金(かわきん)でカレーにカツレツを載せた「河金丼」として、後者は早稲田の老舗蕎麦屋三朝庵で親子丼の鶏をトンカツに替えた料理として登場したのである。さらにカレーライスにも豚肉が一般的に使われるようになった。値段の張らない手ごろな肉料理を求めるニーズに応え、俗に「明治の三大洋食」と呼ばれるコロッケ、トンカツ、カレーライスが大正時代に豚肉料理として庶民の間に定着したのである。

 こうして生まれた豚食文化が、その後、東京から北関東や東北に伝わって、「東の豚肉」分布が出来上がったと考えられる(野瀬泰申前掲書、森枝卓士前掲書)。

 何故、関西、西日本では、豚肉料理が受け入れられるのが遅れ、今でも肉といえば牛という考えが残っているかについては、もともと西日本では農耕に馬より牛を使うことが多く牛肉に親しみがあったからという説が一般的であるが、洋風にこだわる気風や豚を不浄のものと捉える考え方が影響しているという理由も捨てきれないのではなかろうか。

 なお、西日本の中で沖縄は豚肉の構成比が唯一50%を越えており、例外的に豚肉好きとなっている。豚のブロック肉を砂糖・醤油・泡盛で煮込んだラフテーが沖縄の宮廷料理由来の名物となっているなど琉球料理には豚肉を使用したものが多くなっている。これは中国(明)や東南アジアとの貿易や異文化交流がさかんだった琉球王国時代、もともとは牛肉が主流だった沖縄では中国から来る使節をもてなすために豚肉が必要となり、そのために豚の飼育を促進し、琉球人も豚肉を気に入ったため豚肉文化が根付いたからといわれる(尾形希莉子・長谷川 直子「地理女子が教える ご当地グルメの地理学」ベレ出版、2018年)。

 鶏肉消費は、かつては、西高東低の地域構造をもっており、牛肉と違って、九州がもっとも割合の高い地域となっていた。今は、ほぼ消費が全国的に平準化した中で、東北と九州がやや多いというパターンになっている。

 九州から中四国にかけては、以下のように特色のある鶏肉料理が多い。明治から大正・昭和にかけて牛豚文化が全国に広がる以前から、中国に近かったこともあって、鶏肉文化が花開いていたからだという説もある(野瀬泰申前掲書)が、大正時代にはまだ九州地方への鶏飼養頭数の集中は認められないので(図録0448参照)、むしろ戦後になった形成された特徴だと思われる。

福岡県 折尾駅(名物駅弁のかしわ飯)、博多(水炊き、がめ煮=筑前煮)、鳥栖(かしわうどん)、久留米(かしわ飯)、門司(ターザン焼→名古屋で鶏の半身を手羽先に変更して名古屋手羽先へ)
大分県 日田(鳥刺し)、別府・大分・臼杵(とり天地帯)、佐伯(一本揚げ)、中津(からあげの聖地)
宮崎県 延岡(チキン南蛮の発祥の地)、高千穂町(かっぽ鶏)、宮崎県(地鶏の炭火焼き)
鹿児島県 奄美大島(鶏飯けいはん
広島県 広島(砂ずり料理)、尾道(尾道焼き)
愛媛県 今治(鉄板焼き鳥)
香川県 丸亀(骨付き鶏)

 すなわち、下図のように、輸入原料を主とする我が国の飼料生産拠点が東日本の太平洋岸と九州に集中立地しており、鶏肉は飼料がそのまま肉になる程度が高く(図録0219参照)、飼料の運搬費が経営上大きなウエイトを占めるので、そこから遠くない地域に鶏肉生産が集積していることに伴う現象だと考えられる。手頃な鶏肉を好む結果、エンゲル係数が九州などで相対的に低くなっている点については図録7717d参照。


(2016年11いい29にく日「いい肉の日」収録、2017年9月23日2013〜15年豚比率最多福島から新潟に訂正、2019年11月26・27日野瀬2017などを参考に大幅加筆、11月29日補訂、12月2日最近年の2013〜15年平均を2016〜18年平均に更新、平準化指標追加、2022年6月28日更新、2023年4月1日沖縄の豚肉好きの由来、2024年1月6日山形(注))


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