我々が食べる生鮮肉は、牛肉と豚肉と鶏肉がほとんどを占めている。家計調査のデータから好きな肉の種類の地域分布を探ってみよう。同じデータによる好きな魚の地域分布は図録7712

 家計調査の年間支出金額の上位15位までの県庁所在市のランキングから、それぞれの県庁所在市で県が代表されると仮定して、それぞれの生鮮肉を好んでいる地域を色分けした。複数の肉で上位15位に入る場合は、金額の多さではなくランキングの高さで各県民が好きな肉を特定した。

 描いた統計地図を見ると、北陸地方や東海地方より東の東日本では豚肉が一般に好まれており、西日本のうち、近畿や中四国では牛肉が特に好まれ、西日本の中でも、九州全県に鳥取・岡山・滋賀を加えた地域で鶏肉が好まれていることが明らかであろう。

 これは、実際の家計の支出から見た肉の嗜好であるが、人々の意識ではどうなっているだろうか。少し古いデータになるが、日本経済新聞社の食の地方性を話題にしたWEBサイトにおける読者投票で「肉といえば何の肉か」の意識を探った結果のデータを同時に掲げた。

 これを見ると、県民の意識上からも東日本の牛肉好き、西日本の豚好きが極めて明らかである。ただし、鶏肉消費の本場の九州でも肉といえば鶏肉とまでは考えられておらず、むしろ、肉といえば牛肉という意識であることが分かる。さらに細かく言えば、北陸の富山、石川や南関東の東京、埼玉、神奈川は、牛肉より豚肉の消費が多い点が目立っているのに、意識上は「肉といえば牛」という西日本の嗜好を示している。実際の消費を越えて意識上は牛肉優位の考え方が根強いといえよう。

 肉といえば牛肉の関西では、豚肉の中華まんを「豚まん」と称している。「肉まん」と呼ぶと牛肉の中華まんと誤解するからだ。一方、肉といえば豚肉の関東では、単に「肉まん」と呼ぶ習慣である。中華まんの呼び方にも肉の東西構造が反映しているのである。

 ここで使ったのと同じ家計調査データではあるが、牛肉と豚肉と鶏肉の支出額の構成比グラフから各地域はどの肉を多く消費しているかというグラフを図録7238aに掲げた。そこでは1960年代半ばと現代を比較しているが、西の牛肉と東の豚肉という特徴は、半世紀前の方が今より際立っていたことを示しておいた。

 「西の牛肉、東の豚肉」というコントラストが成立した理由としては、豚肉料理が東京から同心円状に普及したからという説が一般的である。

 そもそも仏教の影響などで、日本では先行して肉食に馴染んでいた中国や朝鮮半島と異なって肉畜飼養は一般化していなかった。明治維新以降、日本で肉食が解禁されて、まず普及したのは牛鍋などに代表される牛肉であった。屋台の牛飯(牛どん)や兵隊食として牛肉の大和煮缶詰が普及したのも大きかった。欧米では牛肉がメインだった影響であろう。残飯のエサで飼育される豚の肉は不浄感から嫌われたということもあっただろう。軍隊食から普及したカレーライスの肉も明治期にはまだ牛肉だけだった。

 こうして、牛肉食は全国に広がっていったが、牛肉食の普及や軍隊食への導入により牛肉の価格は大きく上昇していった。

 そうした中、大正7(1918)年頃に、箸で食べる2つの画期的豚肉料理であるカツカレーとカツ丼が東京で相次いで誕生した。さらにカレーライスにも豚肉が一般的に使われるようになった。値段の張らない手ごろな肉料理を求めるニーズに応え、俗に「明治の三大洋食」と呼ばれるコロッケ、トンカツ、カレーライスが大正時代に豚肉料理として庶民の間に広がったのである。

 こうして生まれた豚肉文化が、その後、東京から北関東や東北に伝わって、「東の豚肉」分布が出来上がったと考えられる。

 下図には、豚肉がやっと普及し始めた1924年段階の都道府県別の家畜飼養頭数を示した(家畜飼養数の長期推移を示した図録0448からの再掲)。

 馬が多いのは東日本と九州であり、近畿、中四国では馬は少なく、牛が大勢を占めていたことが分かる。役牛の肉牛転換が可能だった西日本とは異なり、東日本では牛肉を食べようにも牛自体がいなかったのである。

 役牛の肉牛転換の事例として有名なのは、松坂牛である。高級牛肉として知られる松坂牛の起源は、江戸時代に松坂地域の農民が農作業の役畜として購入していた、但馬生まれで紀伊国紀ノ川流域で育てられた雌牛だった。この牛は農民に大事に育てられ、またよく肥えていたので、幕末の神戸の居留地に住む外国人が好んで食べるようになった。そして、明治になると、十数頭の牛を引き連れて東京まで売りに行く山路徳三郎の「牛追い道中」の壮挙が評判になったことから松坂牛の名がよく知られるようになったという(注)。近在に牛が少なかった東京の牛肉需要に応えるためには、そこまでしても引き合うものだったということであろう。

(注)当時の松坂では、紀州で農耕用に調教された「新牛」(あらうし)を農耕で3〜4年使った後、「野上がり牛」として1年間肥育し、「太牛」(ふとうし)として出荷するというパターンがあったらしい。「牛追い道中」は汽車も自動車もない明治5年(1872年)より始まり、同10年(1877年)以降はほとんど隔月に行なわれ、鉄道による大型貨車輸送がはじまった明治30年代まで二十数年間にも及んだという。その後も鹿鳴館や高級料理店などから特別に依頼され、この良質牛を貨車で送り続けたことが松阪地方の肉牛の優秀性が東京で認められることにつながったと言える(松坂市HP)。

 一方、豚が飼養されていたのは、牛肉不足という環境の下で豚肉料理がいちはやく開発された東京を中心とした同心円状の関東、東山、東海といった地方、及び豚が明治以前からの伝統料理だった沖縄、鹿児島に限られていた様子をうかがい知ることができる。

 鶏の飼養羽数を見ると、各地方ブロックで、北海道、茨城、千葉、愛知、福岡、鹿児島といったような拠点地域が存在していた様子がうかがえる。九州地方での鶏肉消費への傾斜は戦後の展開だと思われる。


(2020年1月10日収録)


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