1人当たりの消費カロリー、消費たんぱく質、あるいは1人当たりの所得といった基礎的な厚生指標は、手の込んだ算出方法が必要であり、途上国のデータや歴史的なデータに関して信頼できる数字を得ることがかなり難しい。これに対して、身長という指標は、計測の容易さ、分かりやすさ、あるいは人類学的な観察の蓄積、軍人・囚人・奴隷記録の存在などによって、全世界的に比較的正しいデータが手に入る。かつてのソ連のように、公表される経済・社会データが粉飾されていても身長をごまかすのは容易ではない。従って、身長によって世界各地域・国の各時代の発展度を評価することには大きな意義がある。夜の灯りの衛生画像により、場合によっては、各国・各地域の経済状況を正しく判定できるのと同じことである(図録9412)。 身長の絶対水準は人種的な要因、あるいは寒い地方の方が体が大きいというベルクマンの法則のような生物学的な要因に影響されている可能性があるが(図録2190【コラム】参照)、身長の伸びに関しては、社会的な環境条件の改善が大きな決定要因となる。 時系列軸が出生年代で刻まれているのは、出生後しばらくの栄養条件や疾病状況で成人時の身長が決定される可能性が高いからである。 (東アジア) 東アジアは、地域を構成する中国、韓国、日本のレベルや動きがそれぞれ特徴的なので平均ではなく各国ごとに示した。 中国は19世紀前半までは西欧と互角か凌駕していた点が、まず、驚きである。日本人の身長が低かったので同じ東アジア人である中国人も西欧人に対して背が低かったというイメージがあるが、とんでもない誤りであることが分かる。産業革命までは中国の発展度が西欧を凌駕していたという宮崎市定の説が身長においても確かめられる点で非常に興味深い。 韓国は中国と日本の中間的位置にあったが、経済成長が中国に先んじていたので、1960s生まれ以降に中国を上回るに至っている。 中国、韓国では1870s生まれから90s生まれにかけて身長が低下した。これは同時期の白人移民地域、1870s〜80sの中東・北アフリカの身長低下と並んで、世界全体の長期的な身長上昇傾向の中で、特異な例外事象となっている(後述のサハラ以南アフリカの最近の身長低下と並んで)。OECDの報告書では、こうした身長低下の要因として、白人移民地域では人口増による1人当たりのたんぱく質消費の減少や都市化の進展による疾病構造の悪化が考えられ、アジア・アフリカでは牛の流行病の影響が挙げられている。しかし、アジア・アフリカについては、欧州各国による植民地支配(帝国主義)の影響である可能性が高いといえよう。 (日本) 江戸時代の状況を引き継いだ明治時代の段階では日本人の身長は、世界各地域と比較して、目立って低かったことが分かる。弥生時代にまでさかのぼると江戸時代より10センチほど高く、東アジア平均に近い身長だったようなので(図録2182aからの再掲の下図参照)、人種的な要因で低かったのではなかろう。 これは、日本社会が貧しい栄養を分け合う方向で発展していたためと考えられる。江戸時代末にかけての身長低下は土地開発と人口増による森林原野の縮小にともなう動物性たんぱく質の摂取量低減と穀物依存度の上昇によるものと思われる(図録2182参照)。狭い土地を飼料作物用地ではなくもっぱら食用植物用地として高度利用して人口を多く維持する方式を発展させ、江戸時代には耕作家畜の代わりに人力に頼る「勤勉革命」にまで至っていたのである(図録0207参照)。そして、江戸時代まで基本的に肉食を避けていたことが、原因だったか結果だったかは分からないが、ともかくこの点と整合的だったのである。 明治末以降は、日本人の身長は20センチ近くの増と驚異的な伸びを示し、1980s生まれではついに中国を上回り、欧米人に次ぐレベルまで達した。この間、人種的な変化はなかったので、こうした驚異的な伸びは、やはり、生活様式の欧風化の要因(畳に座る生活から椅子とテーブルの生活への移行など)や経済的な条件に支えられた栄養学的な要因、特に後者によって説明されるべきであろう。 さらに、人類全体の高身長化の動きは栄養的な要因では十分説明がつかないとして、ダールベルグは家畜や栽培植物の雑種第一代が大きさ、耐性、多産性などで両親より優れているヘテロシス(雑種強勢)の効果によるものと考えた。「ダールベルグによれば、各種のバリアによって、長い間通婚が妨げられていた生殖集団の間に遺伝的交流がはじまると、ヘテロシスの効果が発揮されるが、同じ効果は、同一生殖集団内で結婚範囲が拡大したときにもあらわれ、それまでより高身長になるという」(池田次郎「日本人の起源」講談社現代新書、1982年、p.63)。 この考え方によれば、20世紀移行の交通手段の発達や経済のグローバル化によって人口移動が地域間、地域内の両面で激しくなり、通婚圏も人種や地域を越え劇的に拡大してきたことが世界的な高身長化の要因と捉えられる。また、日本が江戸時代に特に身長が低かったのは鎖国に加え、相互流動性の低い幕藩体制や村落共同体を基軸に国内が安定社会となったからであり、その後、急速に身長が伸びたのも、こうした閉鎖的な社会から明治維新を経て一気に世界経済に組み込まれるに至り、国内外で通婚圏が拡大の一途をたどったからと考えることもできる。 (南・東南アジア) 東アジアと比較すると、人種的な要因および経済発展度による栄養的要因の両方で、平均身長が下回っている。最も東アジアに近づいた時期には1センチほどの身長差だったが、最近は、平均身長の差が7センチほどに広がっており、世界の中でも最も身長の低い地域である点が目立ってきている。 (白人移民地域) 米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドからなる白人移民地域(Western Offshoots)は、当初から非常に背が高かった。OECDの報告書は実質賃金の高さ(処女地ゆえの生産性の高さにもとづく豊富な食料を意味する(注))を理由としてあげているが、西欧のうちでも比較的背の高い英国出身者が当初多かったためでもあろう。19世紀末までには、処女地の肥沃さが失われる一方で、イタリアなど南欧出身者が増えたこともあって、身長は低下し西欧に近づいた。しかし、その後20世紀にはいると、西欧と平行し、栄養改善など西欧と同じ理由で急速に身長が伸びている。 なお、上述の雑種強勢の要因を重視する見方によれば、白人移民地域では、欧米諸国民相互やインディアンなどの原住民との混血が進んだことが高身長化の大きな要因だったといえよう。 (注)「アメリカの入植者がイギリスに反旗を翻したとき、アメリカの入植者の栄養状態はイギリス人よりもはるかによかった。アメリカの兵士は味方のフランスや敵のイギリスの兵士よりも頑強な体格だったのだ。1793年にフィラデルフィアの医師ジョン・ベルは、初期のアメリカ人は「大食漢だった。というのは、彼らの周りには、豚、牛、野菜、トウモロコシなど、食物が溢れていたからだ」と記している」(ジャック・アタリ「食の歴史」プレジデント社、原著2019年、p.132)。
ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン、ジェームズ・ステュアート出演の西部劇映画「リバティ・バランスを射った男」(1962年)の中では、西部の田舎町の食堂で農民らの客が次々とステーキをウェルダンで注文して食べるシーンが印象深く描かれているが、そのステーキのおどろくべき巨大さを見るとこの点が思い出される(下は食堂の料理人がステーキ肉を取り出してフライパンで焼こうとしているシーン)。 (西欧と東欧) ヨーロッパ(西欧と東欧)は19世紀以降、ほぼ一貫して身長が伸びてきた。西欧は白人移民地域を除くと世界で最も背が高い。東欧はロシア革命の前までは西欧と互角であったが、1920年代生まれ以降は、西欧を下回るようになった(ロシアと西欧の平均寿命の差については図録8985参照)。 (中東・北アフリカとサハラ以南アフリカ) 中東・北アフリカとサハラ以南アフリカの平均身長は、レベル的に比較的高い点と長期的に変化が乏しい点の2点が特徴的である。 19世紀後半の段階では、両地域とも、西欧や東アジアより身長が高かった。これは、人種的な特性なのか、あるいは文明度の高さによるものなのか、いずれか、あるいは両方なのであろう。 両地域ともに伸びが停滞的であるため、身長は1900sには西欧に抜かれ、1980sには東アジアに抜かれてしまった。 また、サハラ以南アフリカのみが第2次世界大戦後に世界各地域の中で唯一、身長が低下している。身長が低下したのは1960s生まれから80s生まれにかけてである。これは、この時期、サハラ以南アフリカで経済発展の遅れが世界の中でも目立っていたためであろう。 (2014年10月21日収録、2015年2月24日日本人の身長の超長期変化(その2)追加、5月11日コメント補訂、8月6日東アジアを中国、韓国のそれぞれに分けて表示、高身長化の雑種強勢要因説を紹介、8月19日コメント補訂、2016年8月26日白人移民地域の(注)、2017年2月5日「リバティ・バランスを撃った男」画像、2020年10月27日ジャック・アタリ引用)
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