戦前からの男女24歳の身長、体重、BMIの推移グラフを掲げた。このデータはサンプル数が少ないだけに毎年の変動が大きい。特に女性の変動が大きかったのは文部省が把握していたサンプル数が男性より少なかったためと思われる。 これによれば、日本人の男女は、戦前段階でも、身長、体重ともに徐々に大きくなりつつあったことが分かる。近代化とともに栄養状態や衛生状態の改善が進んだためであろう。 そして、男女ともに、戦時中には、体重はそれほど変わらなかったが、身長がかなり低くなるという変化を経験した。 例えば、男24歳の身長は戦前段階で165pに達していたが、戦後直後には再度160p水準に低下し、戦前水準を上回るようになったのは1970年頃であった。 食糧確保がままならないために身体が痩せていたというより、子どもの頃の伸び盛りの成長期に栄養が不足したことが成人期の身長に影響して背が十分伸びれなかったのではないだろうか。 なお、BMIは戦前には戦後直後と同様に女性が男性を上回っていたようである。つまり、今とは反対に男性の方が痩せていたのである。 次に、身長について、縄文時代からの超長期推移を見てみよう。遺骨や化石からは身長は推測できても体重は分からないのである。 骨考古学や形質人類学による縄文時代以降の日本人の身長の超長期推移を上に掲げた。 これらを見ると縄文時代から弥生時代にかけて日本人の身長は大きく伸長し、その後、古墳時代以降、江戸時代末期〜明治時代にかけて、どんどん身長が低くなっていったようである。歯の大きさについても似たような変化がある点については「歯の豆辞典」サイト参照。 時代を遡るほど日本人の身長は低かったというわけでもないようだ。「その1」の図を引用している小山修三(1982)は、弥生時代には狩猟採集経済にコメが加わって安定度を増し身長が伸びたが、その後、コメへの片寄り、肉食の忌避、不労階級の増大による栄養不足によって再度身長が低くなった可能性が高いとしている。 なお、片山一道(2015)によれば、弥生時代の出土人骨は90%以上が北部九州と西中国日本海側であり、関東の出土は10人かそこらだった。関東出土の人骨による「その2」のデータに弥生時代が欠落しているのはそのせいだろう。これは関東に遺跡が少なかったからではなく、日本列島の特殊な土壌事情と弥生時代遺跡の立地条件により縄文時代と異なり骨類が土に帰してしまいがちだったからという。また、渡来人系と考えられる北九州や西中国の出土人骨では、「成人男性の平均身長は縄文人よりも4〜5センチばかり大きい」のに対し、長崎あたりの弥生人は「まるで縄文人もどき」、また鹿児島とその島しょ部の弥生人は「顔立ちは縄文人的であるが、背が極端に低く、成人男性の平均身長は154センチほどと報告されている」(p.103)。すなわち、渡来系、縄文系(関東も)、南九州系と弥生人の地域差は大きかったことが指摘される。そして、「その1」における弥生時代の値は渡来系の値を採用していると見られるのである。 さらに、縄文人と中世人・近世人は同じように背が低かったといっても、足の長さは大きく異なっていたことも見逃せない。「縄文人は、身長が低いわりに、脚や腕が長めの体形であった。脚の長さの身長に対する比率は52%ほどと、最近の日本人と変わらないが、ほかの時代の値(おおむね50%を超える程度)に比べると大きい。つまり、さほど「胴長短脚」ではなかった。(中略)縄文人は、肩幅は細めながら、腰まわりは大きめだった。それに下肢の筋肉(ことに走行筋)が発達していたから、かなり、均整が取れ、まるでクロスカントリーの選手のような体形だったようだ」(片山(2015)p.61)。 (注)これに関しては、最近の研究では、縄文人は長脚でなく、後代と同様胴長だとされているらしい。「温暖な地域からやって来て脚が長いと想像されていた縄文人は、弥生人と同様に短足だったことが骨の分析で分かったと、国立科学博物館のチームが発表した。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったことも判明した。縄文人は、顔の形の研究などから南方の出身とする説が古くからある一方、謎も多い。同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長は「体形から考えると、起源は南方よりも(寒冷な)北方とする説を支持する結果だ」と話している。 チームは北海道や本州、四国、九州にある20の遺跡で出土した主に6000〜3000年前の縄文人63人分の骨を計測。島根・山口両県と九州北部にある4遺跡から発掘された弥生人27人分を調べ、体形データを比べた。一般に、温暖な地域では胴に比べて手や脚が長く、寒冷な地域では短くなるとされる。縄文人は脚が長い熱帯型とは言えず、北東アジアを起源とする寒冷地型の弥生人と差がなかった。身長は弥生人の方が高いという特徴があった。東京都内で出土した94人分ある江戸時代の人骨のデータを調べると、縄文人や弥生人より明らかに胴長短足だった。原因は不明だが、江戸時代の平均身長が低いことと関係がありそうだという」(毎日新聞2015年11月17日夕刊)。
日本人の身長は江戸時代にかなり低くなった。海外西欧人が見た戦国時代の日本人像と幕末の日本人像では大きな違いがあるのは、両時点における背の高さの差が影響していよう。「日本王国記」という戦国時代の日本の記録を残している「ヒロンが日本人は風采がよく、ひどく派手好きで華美だと言っているのも、注目に値する。なぜなら幕末から明治初期の観察では、日本人の男は容貌醜く不恰好で、生活習慣は上下ともに質素と記述されているケースが非常に多いからである。ヒロンは、両刀をたばさんだ武士は「あたかも世の中に他に人はいないかのような傲然たる態度で」路上を闊歩すると言っている」(渡辺京二「日本近世の起源」洋泉社新書y、p.48)。 戦後の身長の伸びがカロリー摂取量というより動物性タンパク質の摂取量の増加によるものだったことから逆に考えて江戸時代末期にかけての身長の短縮を動物性タンパク質の摂取量の減少によるものと考える見方が成立する。鎌倉時代より江戸時代の身長の短縮の「原因はおそらく、16〜17世紀における人口増加にともない人間の生活圏が拡大して森林原野が減少したことにより、動物性蛋白質の摂取が減り、穀物依存の食生活が成立したことと関係があるのではないだろうか」(鬼頭1996)。この点については図録2195参照。16〜17世紀の人口増加については図録1150参照。 明治以降の身長の伸びはそれ以前と比較して驚異的であるが、その要因としては、一般には、乳幼児以降の成長期における動物性たんぱく質の摂取増(戦後は特に乳製品の摂取増)という栄養状態の改善が想定されるが、片山の師である池田次郎の説では、通婚圏の拡大による雑種強勢が影響しているという。中世で背が低くなったのもこの反対の動きとされる。池田は「中世人や近世人で背丈が低めに推移し、頭が前後に長くなったのは、通婚圏が縮小したため、近代人になり、いくぶんか、その逆の身体変化が起こったのは、通婚圏のしばりが緩んだため、と考察した」(片山(2015)p.158)。 なお、図録2195で、身長の長期推移を世界の主要国と比較しているので参照されたい。近代以上の日本人の身長の伸びは世界の中でも類を見ない著しさだということが分る。 【参考文献】 ・片山一道(2015)「骨が語る日本人の歴史」ちくま新書 ・鬼頭宏(1996)「生活水準」(西川俊作・尾高煌之助・斎藤修編著「日本経済の200年」日本評論社) ・小山修三(1982)「米と日本人」(週刊朝日百科「世界の食べもの」101号) (2018年4月10日図録2182から独立、7月15日渡辺京二引用)
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