1.中南米の構成民族要素 アメリカ大陸には、ヨーロッパ人が進出する以前は、モンゴロイド系のインディオ先住民が居住していた(インディオ先住民がアジアから移ってきた様子は図録4170参照)。 1492年のコロンブスのアメリカ発見以降、ヨーロッパの白人が中南米に進出し、メキシコのアステカ帝国、ペルーのインカ帝国を滅ばして、覇権を確立した。ブラジルはポルトガル人、それ以外はスペイン人が白人植民者の中心であったため中南米諸国はラテンアメリカとも呼ばれる。ただし、環カリブ海諸国の中にはジャマイカ、ドミニカ、トリニダードトバゴ、バハマ、バルバドス、ベリーズ、ガイアナなど旧英国領の国々もあり、これらの国では英語が話されている。 白人による先住民に対する労働強制やヨーロッパから持ち込んだ疫病のためカリブ海諸国などではもともとインディオ先住民の人口密度も低かったこともありインディオ系住民が極端に減少し、彼らに代えてアフリカから黒人奴隷が労働力として移入されることとなった。 こうした事情を背景に中南米諸国の主な民族構成要素としては、かつてヨーロッパから来て新たに米大陸を支配した「白人」、米大陸の先住民であった「インディオ」、奴隷としてアフリカから連行された「黒人」、及び白人とインディオの混血である「メスチソ」、白人と黒人の混血である「ムラート」をあげることができる。黒人はインディオが少ない、あるいは少なくなった地域に主に移入されたので、黒人とインディオの混血もまた少なく、メスチソやムラートのようなこれを代表するような用語はない。 メスチソは、ここでは白人とインディオの混血を代表する用語としているが、人種上の混血を表す場合が多いとはいえ、人種上のインディオの中で、ケチュア語などのもともとの言語ではなく、白人の言葉、スペイン語を話すようになった者、すなわち文化上の混血を表す場合も含まれる点に留意が必要である。黒人はアフリカ直系の言語を保持しなかったので、ムラートには2重の意味は存在しない。 2.中南米の各地域の民族構成 (1)中米からアンデス諸国にかけて
メキシコからパナマまでの島しょ部を除く中米地域、さらに南米大陸のアンデス諸国にかけては、メスチソが多いことで目立っている。その中でコスタリカのみは白人が多数を占める点で目立っているが、これは、ニカラグアやパナマといった隣国と民族構成が異なる特別の歴史がある訳ではなく、メスチソなどが自らを白人と見なすようになったためでであると考えられている。 これら地域の中でも、スペイン語文化に同化しない先住民インディオの構成比が大きい地域は、アステカ帝国やマヤ文明の中心であったメキシコやグアテマラ(それぞれ3割、4割)、および南米インカ帝国の中心地エクアドル、ペルー、ボリビア(それぞれ25%、45%、55%)である。最もインディオ比率の高いのはボリビアであり唯一人口の過半数を占める。 インディオの諸民族としては、ペルーやボリビアのケチュア族(かつてのインカ帝国の支配民族)、アイマラ族(チチカカ湖周辺の民族であり山高帽子をかぶっているのが特徴)、チリのマプチェ族(注)、パラグアイのグアラニー族、メキシコ・グアテマラ・ベリーズのマヤ族などが有名である。 (注)インカやスペイン人に長く抵抗したことで知られる。ウィキペディアによると、16世紀以降南アメリカに進出したスペイン人の報告では、彼らはアラウカノ族 (Araucanos) またはアラウコ(アラウカン)語族 (Araukanians) と呼ばれていたが、現在では軽蔑的な言葉としてこれは忌避され、チリやアルゼンチンではもっぱら「マプチェ族」の表現が用いられており、彼ら自身もこれを歓迎している。 (2)環カリブ海地域・ブラジル
環カリブ海諸国(カリブ海島しょ部及びカリブ海沿岸部)とブラジルでは、黒人、及び黒人と白人の混血であるムラートの比率が高い点で、その他の中南米諸国と明確に異なっている。これら諸国ではサトウキビ・プランテーション等に果たす黒人奴隷の役割が高かったためと考えられる(北米でも米国の南部諸州は同様の状況)。 その中でもトリニダードトバゴ、ガイアナといった旧英国植民地では、黒人の他に、南インドからの移民労働者の子孫であるインド人の比率が多い点が目立っている。元オランダ領ギアナであるスリナムでは、労働力として、同じオランダ植民地であったインドネシアのジャワ島人の他、インドの契約労働者を受け入れたため、現在でもインド人が多い。 キューバ、プエルトリコ、そしてブラジルは、白人の比率が50%以上である点で目立っている。プエルトリコではかつて農業プランテーションの数が少なく、肉体労働者への需要も小さかった。そのため黒人奴隷の移入数も少なかったのでイスパニオラ島(ハイチ、ドミニカ共和国)などと比べ白人の比率が高いまま推移した。キューバは1860〜1870年代まで非常に多くの黒人奴隷が移入されたが、その直後、これまた非常に多くのスペインやカナリー諸島からの農業移民が入植したため白人比率は低くならなかった(Robin Moore, Music in the Hispanic Caribbean: Experiencing Music, Expressing Culture (Global Music) , Oxford Univ Pr, 2010)。ブラジルの場合は、キューバ的な要因とアルゼンチン、ウルグアイで白人が多いのと同様の要因の複合だと思われる。 環カリブ海地域でメキシコ・中米、アンデス諸国と比較して先住民インディオが少なく、黒人が多い理由としては、熱帯プランテーションへの黒人奴隷導入のほか、先住民に対する白人による酷使や元々の人口密度の希薄さがあげられることが多い(図録8825参照)が、マクニール(1976)によれば、米大陸が未経験だった感染症による影響度の違いによるとされる。 新大陸では、人類と都市の歴史、従って感染症とのつきあいの歴史が浅く、感染症の保存庫ともいうべき家畜飼養の役割が小さかったため、白人の到来とともに旧大陸から持ち込まれた種々の感染症の餌食となった。かつて旧大陸から移動した人類が、人類に対して抵抗力のない新大陸の動物を数多く滅亡させたが(図録4170参照)、皮肉なことに、今度は、旧大陸から移動した微生物がそうした微生物に対して抵抗力のない人類の多くを滅亡させた訳である。天然痘の猖獗からはじまり、はしか、発疹チフス、インフルエンザ、ジフテリア、おたふく風邪が、免疫がないため高致死性の病気としてインディオを襲った。コルテス上陸時のメキシコ文明中心地が抱えていた2,500〜3,000万人の人口が1620年には160万人までに激減したといわれる。 新大陸の熱帯地方には、ヨーロッパからの感染症に加えて、ヨーロッパ人や黒人奴隷が伝えたマラリアと黄熱病というアフリカ産の感染症が根を下ろし、二重の打撃となった。「アフリカ生まれの熱帯性の感染症は、ヨーロッパ渡来の様々な感染症が引き起こした破滅の後を受けて、最後に駄目を押すかのように新大陸に襲いかかって来、各地に大規模に根付いてしまったわけだが、その結果は、以前住んでいたインディオ住民のほぼ完全な消滅だった。一方、熱帯性の感染症が入り込むことのできない地域、例えばメキシコ内陸の高原やペルーの高地などでは、コロンブス到着以前の住民は、もちろんドラスティックに衰えてしまったわけだが、完全な滅亡とまでは言えない。」(ウィリアム・H・マクニール「疫病と世界史」中公文庫、原著1976年) なお、メキシコやペルーの沿岸地帯は熱帯気候のところが多いが、上と同じ理由により、そうした沿岸地帯に住むインディオ人口の減少率は、山岳地帯の減少率よりかなり高かったとされる。また図に見られるように中米やアンデス諸国でも黒人が一定割合を占めている場合があるのはこうした理由による。 (3)ラプラタ地域
南米のアルゼンチン、ウルグアイでは、もともとインディオの人口密度が低かった上に、スペインだけでなくイタリアなどからの白人の移民を19世紀半ばから大量に受け入れたために、中南米の中では最も白人の比率が高い地域となっている(白人比率はアルゼンチンで97%、ウルグアイで88%)。もっとも血統的には白人の中にはインディオの血を引いているものがかなりいると考えられている。 米国のカーボーイに当たる牧人ガウチョは、スペイン人とインディオの混血であり、ここでの分類ではメスチソにあたる。かつて自由主義知識人はガウチョをスペイン的な遅れたもの、野蛮なものの見本のように扱い毛嫌いしたが、大衆の心性に訴えたガウチョ文学がガウチョの独特な文化や精神性を歌い、現在ではガウチョ精神がアルゼンチンのアイデンティティの一部となっている。例えば「ガウチョらしく振舞う」といえば自己を犠牲にしても他人のために尽くす人という意味になり、「ガウチョの言葉」といえば、それは「武士の一言」を意味するといわれる。 アルゼンチンの国民はメスチソ文化を取り込んだ自分たちの文化を白人文化として自己認識しているようである。 3.中南米諸国の民族文化の複合性 (1)キューバの文化複合
キューバでは上述の歴史的経緯から「アフリカの影響の強い音楽とスペインの影響の強い音楽、そして両者の混交形態(creolized forms)が見出される」(Robin Moore 2010)。白人の比率が大きいからと言ってスペイン文化が基調とは単純には言えない。というのも白人がむしろ黒人文化の影響を強く受けているからである。キューバ音楽がその典型例である。 日本でもお馴染みのコーヒー・ルンバ(西田佐知子が歌い、荻野目洋子、井上陽水らがカバー)ではキューバ音楽の基本であるクラーベ(またはシンキージョ)というリズム型がクラベス(一対の棒状木片)で印象的に奏されている。このリズム型はキューバ音楽だけでなくラテン音楽やポピュラーミュージック全体に大きな影響を与えた。アフリカ音楽研究の世界的な大御所であるゲルハルト・クービックによると「クラーベとはキューバに入植したスペイン人がアフリカの標準リズム型に出会った際に、それを自分たちの拍子感覚で「再解釈」したものだという。すなわち、スペイン系キューバ人がアフリカの奴隷がもたらした三拍子系(八分の一二拍子)のリズム型を西洋音楽の二拍子(四分の四拍子)の感覚に合わせて再編成したものがクラーベだと考える」(塚田健一「アフリカ音楽の正体」音楽之友社、2016年、p.75)。外観はヨーロッパだが内実はアフリカなのである。そして、このクラーベのリズムが、19世紀から20世紀にかけてアフリカへ送られた軍楽隊や出稼ぎ労働者によってアフリカに里帰りし、アフリカのポピュラー音楽である「ハイライフ音楽」や「リンガラ音楽」を生んだとされる。「長い年月を経て標準リズム型がクラーベに様変わりしてアフリカ本土に里帰りしたとき、どうなったか。それを聴いたアフリカ人は、長い間会っていなかった旧友に出会ったかのように、「血が湧いた」という。例えてみれば、美しく着飾って別人かと思ったが、服を脱いでみたら、じつは自分たちと同じ「アフリカ人」だったといったところであろう」(前掲書、p.79)。 外観はヨーロッパだが内実はアフリカであるもうひとつ例としてキューバの宗教を挙げることができる。 私はキューバ音楽のファンであるが、Celina y Reutilioというグアヒーラ音楽(田舎の農民音楽をポピュラー音楽化したジャンル。日本で言えば民謡をベースにした演歌といった感じ)の男女デゥオ・グループが多分1950年代に録音した”Santeros Y Otros”というLP(Spanoramic SPL121)をはじめてきいて腰を抜かした記憶が鮮明である。聖バルバラなどキリスト教の聖者のデザインや名前にあふれたジャケットや曲名はキリスト教の宗教音楽であることを示していたが、音楽そのものは黒人音楽がベースのしっかりしたリズムをもち、神秘感と華麗さにあふれたキューバ音楽だったからである。後に知ったことであるが、黒人導入の歴史が他国より遅れたため(図録8826参照)、キューバにはアフリカの宗教が比較的純粋に保たれており、キューバ人の多くは白人を含めて、表面上はカソリックの聖者信仰でありながら内実はそうした聖者になぞらえたアフリカの神を信じているというのだ。 キューバの黒人宗教の「風習は、ハイチのそれと比べてずっとアフリカの原型に近い形で残っており、アフリカの神々の多くが、たとえば稲妻とあらしのヨルバとか軍神のチャンゴなどのように、かつてのアフリカの呼び名のまま信仰されている。それらの信仰と結びついている儀式も、そっくりそのまま残っている。今世紀初頭のキューバにはアフリカ生まれの黒人が数千人も生きていて、なかにはアフリカの儀式を覚えているものもいた。しかしそれもキリスト教の多くの聖人をアフリカの神々と同一視して次ぎに採り入れるさまたげにはならなかった。聖ペテロは道の支配者エレグアと同じものとみなされ、聖フランシスはアフリカのクルミラ(運命の神)となり、洗礼者聖ヨハネは、ハイチにおけると同様に、強い酒の大好きな軍神オグンとなった。... これらアフリカの信仰は黒人やその混血の間だけに限られていたわけではない。今世紀半ば頃までには、白人のかなりの部分がカトリック教会の戒律から離れて、これらジャングルの宗教の感動性と興奮に引かれていった。...アフリカの信仰に参加することはしゃれているとみなされた。キリスト教化されたアフリカの女神である聖バルバラは、パンヤの木の精としても知られているが、世慣れたハバナの人々に好まれた。彼らは聖バルバラの社に集まって興奮状態をつくりだし、顔に小さな雄鶏の血を塗った。カストロが権力の座についた1959年頃の記録によると、ハバナの白人中産階級の人々で聖バルバラの社を訪れる人は教会へ行く人の数とほぼ等しく、また土地のウルワース百貨店には聖バルバラ崇拝のための用具売場がいくつも設けられていたという」(ノーマン・ルイス「キューバ人」『世界の民族〈第5巻〉大西洋・カリブ海』平凡社、原著1973年)。 なお、こうした白人を含むキューバ国民の黒人文化との融合がナショナリズムによって国民文化として形成されていった点については、Robin D. Moore(1997), "Nationalizing Blackness: Afrocubanismo and Artistic Revolution in Havana, 1920-1940"に詳しい。北米だけでなくキューバでも白人が顔を黒く塗りたくって黒人を揶揄する芸能だったミンストレルショーがさかんだったが、こんなところから生れた音楽が他国と異なる優れた「キューバらしさ」としてむしろキューバ国民のアイデンティティの要素となっていったのである。 (2)フォルクローレ音楽の出自にふれて
ラテン音楽の中でキューバ音楽系やブラジル音楽系は白人(ヨーロッパ)と黒人(アフリカ)の音楽伝統の混合から生まれているとされるが、フォルクローレ系はスペインとインディオの音楽伝統の混合から生まれていると考えられることが多い。しかし、ボリビアのフォルクローレ奏者(チャランゴ)は黒人の影響も大きいと言う。 −−日本でアンデスのフォルクローレをやろうという人は、最初はアルゼンチン経由のスタイルでした。でも今は、みんなボリビア音楽をやりたいんですよ。これは世界的にそうだと思うんですが、なぜボリビアなんでしょうね? ジョニー・ベルナール(サンポーニャ)「リズムだよ、リズム」 −−そうですよね。なぜリズムに変化と活気があるんだろう? エルネスト・カブール(チャランゴ、リーダー)「...ボリビアの国の中に、コトバも習慣も宗教もちがう50の国がある。それぞれの地域で独立して発達し保たれてきたリズムがあるんだ」 −−植民地時代のスペインから伝えられたものが、各地で孤立して別のリズムになってきたんですね。 エルネスト「アフリカとの混血もあるんだよ。ヨーロッパ、アフリカ、そして原住民である祖先インディオ」 −−ボリビアとアフリカというのは、どうも結びつかないんですが... エルネスト「ポトシの銀山で、インディオは搾取しつくされて働きたがらないというんで、黒人奴隷が連れてこられたんだよ」 −−でも黒人奴隷は、高地の寒い気候に耐えられず集団脱走したんでしょう?東南部の熱帯平原へ。 エルネスト「いや、そんな遠くではなくて、もっと近くてより住みやすい土地へ行ったんだよ」 ルーチョ・カブール(ケーナ)「ユンガス地方、つまりラパスの北の方には、黒人の部落があるよ」 エドガル・ブスティージョ(ギター)「今でも、彼らの子孫が住んでいるんだ。コリバタとかチカロマという名の村だよ」 エルネスト「彼らのリズムが、サヤとかトゥンディキ、あるいはトゥントゥナと呼ばれるものだ」 −−ポピュラーなモレナーダというリズム形式も、黒人色がありますね。 エドガル「ボリビアのフォルクローレが素晴らしい理由のひとつとして、古代インディオ文明の伝統もあると思うんだ。...」 −−そういう古い伝統への新しいアプローチはどうなっていますか? エルネスト「ネオ・フォルクローレの分野だね。私たちもそうなんだが、ラパスやコチャバンバといった都会の人間が、先祖からの文化的価値を素材に新しい音楽をつくっているというわけだよ」 (「伝統あるボリビアに新しいアプローチ!インタビュー/エルネスト・カブールとそのコンフント、インタビュアー:高場将美」『中南米音楽』1981年11月号) カブールの音楽はフォルクローレ音楽であり、演奏の際の装束はインディオのものであるが、カブールとその仲間は都市の白人である。ここでは、都市の白人文化として、メスチソ、インディオ、ムラートの音楽文化を継承発展させていくと宣言されており、先にふれたキューバの白人宗教、アルゼンチン白人のガウチョ・アイデンティティと同様の文化展開が意識的・自覚的に図られていることがうかがわれる。 日本人が形成されたのも中国など大陸からやって来た文化程度の高い入植者が列島先住民の言語や文化、感情を採り入れ、万葉集、古事記の日本語として自覚的・人為的に創り上げたことに由来するというのが岡田英弘の説であるが(『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』(弓立社1994年、ちくま文庫2008年)など)、ラテンアメリカにおける白人文化の展開と同様のことが起こったと理解すれば特段奇とするに当たらない。 4.原表 以下に図のデータの原表を掲げる。 単位:%
(資料)米国CIA,The World Factbook (last updated on 23 April 2009)、ベネズエラのみ外務省HP (2009年5月4日収録、5月7日マクニール疾病史コメントを追加、2010年11月29日環カリブ海地域、キューバの文化複合のコメント改変、2016年6月20日クラーベのリズムについて、2024年2月19日マプチェ族の(注))
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