1.東南アジア諸国の民族構成


 フィリピンはマレー系が90%を占めており、中国系(福建華人)、スペイン系との混血も多いという特徴がある。米CIAの各国統計集により作成した図の民族構成はマレー系をさらに細分化した分類である。マレー系のタガログ人が28.1%と最も多く、同系のセブアーノ人13.1%、イロカノ人9%と続く。

 インドネシアも多くがマレー系であり、フィリピンと同様図の民族構成はさらにマレー系を細分した側面が大きい。ジャワ人が40.6%で最も多く、スンダ人15%、マドゥラ人3.3%がこれに次ぐ。

 マレーシアはマレー人、中国人、インド人という3つの民族の混合国家といわれるが、マレー系が、マレー人50%、先住民を含めると6割以上となっている。インドネシアやフィリピンのようにマレー系は細分されていない。中国人は23.7%と約4分の1、インド人は7.1%である。

 マレーシアから独立したシンガポールは中国人が76.8%と4分の3以上を占める。その他では、マレーシアと同様、マレー人とインド人が多い。

 マレーシア、シンガポールの中国系住民には、英国植民地時代にスズ鉱山労働者・クーリーなどとして中国南部から連れて来られた賃金労働者の子孫が多いが、華僑として知られる商業者や政治難民出身者も少なくない。スズ鉱山の労働者に中国系が多かったのはスズ鉱山開発では華僑資本が欧州資本に先行したからだと言われる。インド系住民は、多くが、南インド出身者 (タミール人) であり、中国系労働者の導入を嫌った欧州系中心のゴム栽培プランテーションに投入されたエステート労働者の子孫である(注)。商業都市国家として独立したシンガポールでは中国系住民が支配的であるが、インド系住民の割合は、マレーシアとシンガポールではともに1割弱と余り変わらない。

(注)「マレー半島では、1921年にゴムが栽培面積の6割以上を占め、ゴム生産の4分の3をヨーロッパ系のプランテーションが占めたが、その労働者の78%をインド人が占めた。彼らはプランテーションが任命するカンガーニという移民仲介人によって徴集募集され、過酷な条件の下で働いたが、インドの民族運動の高揚のなかで抗議が高まり、1938年に廃止された。1898〜1938年の間のカンガーニ制度による移民労働者は115.4万人であったという」(北原淳「東南アジア経済発展の歴史−小農社会の形成と崩壊−」(北原淳・西澤信善編『アジア経済論 (現代世界経済叢書)』ミネルヴァ書房、2004年))。

 シンガポールでは1960年代に続発した人種暴動の反省に立って民族宥和政策を保持している。「移民政策も民族のバランスを維持するように管理されている。中国人はインド人やマレー人より子どもが少ないため、これが北京語を話す中国本土からの移民流入にむすびついているが、シンガポール生まれの中国人にとっては癪の種である。というのもシンガポール生まれの旧世代中国人の共通方言は客家語だからである」(The Economist July 18th 2015, Special Report: Shingapre)。

 マレー系の国以外では、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーでは、それぞれ、タイ人、ベトナム(越)人、クメール人、ラオ人、ビルマ人が過半数から9割程度を占めている。

 東南アジア各地に中国人、中国系、華僑がおり、図の民族構成にも多くの国で顔を出している。経済界や商業などで果たしている役割は人口比率より大きい。特に、マレーシア、シンガポール、タイでは中国人比率が大きく、商業都市国家としてマレーシアから分離したシンガポールは中国人の国といってよい。中国人が計上されていないインドネシア、フィリピンでもかなりの中国系住民が存在している(Wikipediaによるとインドネシアの中国人は5%。各国の華僑人口は図録8590参照)。

2.東南アジア諸民族の解説

東南アジア諸民族
国名 民族名 解説
インドネシア ジャワ人 ・ジャワ島中・東部を本拠地とするインドネシア最大の民族・政府の島外移民政策によりスマトラ島ランボン州や南米スリナムなどにジャワ人社会を形成
・千年近いインド系諸王朝のもとでヒンズー・仏教を信仰していたがその後土着的
・インド的な要素を持ちながらイスラム教を信仰
スンダ人 ・ジャワ島西部のインドネシア第2の民族
・スンダ人もイスラム教徒だが多数を占めるジャワ人との対抗関係もあって厳格な信仰を守ろうとする傾向が強い
マドゥラ人 ・ジャワ島北東海岸に接するマドゥラ島及びジャワ島東端に住む
・ジャワ人との対比で個人の独立心が強く、熱情的なイスラムの信仰をもち、個人の武勇に高い価値が置かれ伝統的に血の復讐の慣習が行われてきたといわれる
・過去にはジャワの諸王やオランダ植民者にマドゥラ人の軍隊が重用された歴史をもつ
ミナンカバウ人 ・西スマトラを故地とするジャワ語系民族
・伝承ではアレクサンドロス大王の末裔という
・現存する世界最大の母系制社会を形成することで知られる
・強固なイスラム教とでありムランタウ(出稼ぎ。広義には知識、富、名声を求めての出村)の習慣によっても知られる
・現在はジャカルタをはじめインドネシアの諸都市に多く移り住んでおり、都市知識階層の一翼も担っている
ブギス人 ・スラウェシ(セレベス)島の南西半島に居住する
・東南アジア海域世界において、海賊、傭兵、商人として著名であり、オーストラリア北岸、ニューギニア、マレー半島など大陸部東南アジアの沿岸にその活動は及んでいる
フィリピン タガログ人 ・ルソン島、ミンドロ島などに住みタガログ語を話すフィリピンの最大グループ
・マニラが政治経済文化の中心だったため国全体への影響力が強rくタガログ語を基礎としたピリピノ語が国語とされている
セブアーノ人 ・セブ島,ボホール島,ネグロス島東部,レイテ島西部などの中部ビサヤ地域に住むビサヤ族の最大グループ
ヒリガイノン・イロンゴ人 ・糖業の盛んな西部ビサヤ地域のとくにネグロス島西・北部,およびパナイ島東部に住むビサヤ族のグループ
・耕地面積に対して人口が稠密なため、東部ビサヤ地域やマニラ、ミンダナオ島、さらにはハワイやアメリカ本土に移住する者も多い
イロカノ人 ・ルソン島北部の西海岸のイロコス・ノルテ、イロコス・スール両州およびカガヤン河谷などに住むフィリピン第3の人口グループ
・性向が他の諸族に比して勤勉で忍耐強く、生活が質素で倹約家であるといわれ、マルコス大統領をはじめ、政府や軍の要職に就いている者が多い
ビコル人 ・ルソン島南東端にのびるビコル半島およびカタンドゥアネス島に住む(レガスビが中心都市)
・他の諸族に比較してカトリック教徒の比率が高く、運命を享受して郷里にとどまることを好み、他地域へ移住することが比較的少ないといわれる
マレー半島 マレー人 ・マレー半島、東マレーシア、スマトラ東岸やその周辺に散在する小島群におもに居住する民族であり、オーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族に属するマレー語を話す
・紀元前2500‐前1500年ごろ南中国の雲南あたりから南下してきたものといわれ、航海術に秀でてフィリピン群島やインドネシア諸島、アフリカのマダガスカル島にまで渡ったという
タイ タイ人 ・タイ国に住み仏教を信じているタイ系民族の主要グループを指していることが多い
・タイ系民族はタイの他、インド・アッサム、ビルマ(シャン族など)、雲南(ヌア族)、ラオス(ラオ人)、ベトナム、中国(チワン族など)と広範囲に広がっている
ベトナム ベトナム人 ・漢字では越南人、周辺の少数民族からはキン(京)人(主要民族の意)と呼ばれる。安南人はフランス統治下での旧呼称。
・南下した越人が先住民と混交して形成されたベトナムの中心種族
・10世紀までの中国の直接支配の及ぼした影響大。信仰面では仏教,儒教,道教が移入。
タイー(Tay)人 ・ベトナムで2番目に多いタイ系の民族グループ
・中国やベトナムの王朝に反抗してきたタイ族の子孫であり、中国の影響下に置かれたのが、チワン族、ベトナムの影響下におかえたのが、タイー族といわれる
・かつて漢字を利用した、タイーノムという独自の文字を使用していた
ターイ(Thai)人 ・中部・北部高原地帯に住む黒タイ族、赤タイ族、白タイ族など
ムオン人 ・北部から中部にかけての山間地帯に散在する種族
・ムオン語はベトナム語とともにアウストロアジア語族に属すが今日のベトナム語が失った語頭の子音群を残しているなど歴史上の価値が大で両者を併せてベト・ムオン語と呼はれる。
モン人 ・オーストロアジア語族のモン・クメール語族に属する
・かつてインドシナ半島に諸王国(ドバーラバティ(タイ)、ハリプンジャヤ(タイ)、ペグー(ビルマ)など)
・11C以降タイ族、ビルマ族の攻略によって衰退
カンボジア クメール人 ・アウストロアジア語族のモン・クメール語族に属するカンボジアの中心種族
・カンプチア人、クマエ人と自称
・9〜15Cに古代クメール王国アンコール朝を形成
ラオス ラオ人 ・タイの北部・東北部からラオスにかけて分布するタイ系の民族
・雲南から南下したユアン系ラオ族はタイのチエンマイを中心とするラーンナータイ王国をつくり、一方,メコン川に沿って東進した東ラオ族はカンボジアのビエンチャンなどに土侯国をつくりのちにランサン王国として統一された
ミャンマー ビルマ人 ・自称バマーのモンゴロイド種族。シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属する言語を話しミャンマー人口の多くを占める。
・ヒマラヤ山脈北側の騎馬民族が9Cにイラワジ平野に進出し農耕民化し定着したといわれる
シャン人 ・インドのアッサム地方から上ミャンマーを経て中国雲南省にかけて分布するタイ系諸族の一種族
カレン人 ・ミャンマー南東部のカレン州を中心に分布する種族。チベット・ビルマ語派に属す。一部は低地ミャンマーやタイ西部にも住む。
・ビルマ英領時代キリスト教を信奉し植民地支配に協力的だったためビルマ人はカレン人に対し複雑な感情をもつ
ラカイン人 ・アラカン人ともいう。ビルマ人、シャン人、モン人と並ぶ4大仏教民族集団の1つ。チッタゴン(バングラデシュ)のマルマ人や北東インドのモグ人と系統を共にする。
・なお、ラカイン州(旧アラカン州)にはイスラム系先住民族としてロヒンギャ人が住んでおり、もともとはバングラデシュからアラカン王国の従者として渡来したともいわれ、仏教徒からの迫害でバングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国を跨っている(コラム参照)。
(資料)平凡社大百科事典など


【コラム】シャン人(族)とシャン州(ミャンマー)

(アジア各地の納豆食を訪ね歩き、納豆地域の性格や納豆や日本納豆の起源を探った高野秀行「謎のアジア納豆」新潮社(2016年)から、以下に、納豆の本場のひとつであるシャン人(族)とシャン州(ミャンマー)についての記述を引用する。)

 シャン族はミャンマー最大の少数民族である。その数ざっと500万、ミャンマー全人口の1割弱を占める。多くはタイと国境を接する東北部のシャン州に住んでいる。

 自称は「タイ(Tai)」。タイ王国のタイ族(Thai)とは民族的に親戚筋に当たる。タイ族がシャン族のことを「タイ・ヤイ(大タイ)」、自分たちのことを「タイ・ノーイ(小タイ)」と呼ぶことからわかるように、本来シャン族は「自分たちより先に生れ偉大だ」という意味のはずなのだが、今となっては「山のタイ人」という、蔑視のニュアンスを含むように感じる。

 タイ語とシャン語は日本の標準語と沖縄語くらいの違いがある。シャンというビルマ語や英語の呼び名も「シャム」が訛ったものだ。本来は彼らの自称を尊重し「タイ」と呼ぶべきだが、混乱をさけるため「シャン」と書くことにする。

 ミャンマーは、主だった少数民族はほとんど全て第2次世界大戦後まもなく反政府ゲリラを結成し、民族独立運動を展開していた。ミャンマーが軍事政権の統治下におかれると、対立や戦争は激化した。シャンもその一つだ。おかげで、シャン州の人々は独立運動家、ゲリラ兵士、一般人を問わず、弾圧されて難民化したり、出稼ぎに来たりで、タイ北部に出てきていた。私が暮らした1990年代、その数は十万人を超えると言われ、タイ北部の中心であるチェンマイはシャン独立運動の一大拠点と化していたのだ。

 センファー(チェンマイ大学で著者が友人となったシャン族の当時23歳の若者−引用者)と私は反政府運動の雑用係みたいなことをしていた。難民や避難民に支援物資を配るとか、独立運動のリーダーたちをバイクで運ぶとか、集会所の掃除とか。ここで私は民族、宗教、戦争、独裁、人権侵害、独立、難民、援助、麻薬、ジャーナリズムといった諸問題を実践でイロハから学ぶこととなった。学ばなかったのは食文化ぐらいだ。例えば納豆とか(p.18〜19)。(中略)

 日本人はシャンの家庭料理を口にする機会をかってはふんだんにもっていた。第2次世界大戦で日本軍がビルマを攻略し占領したとき、大きな拠点の一つがシャン州だったのだ。このとき日本軍の将兵はシャン料理を体験しなかったのだろうか。シャン料理を強く印象づけられる記録について、私は見聞きしたことがない(ビルマ関連の戦記200冊くらいに目を通した作家の古処誠二氏によると納豆に関する記述は思い当たらないという−引用者の要約)。

 第2次世界大戦が終わると、シャン州は次々と動乱に巻き込まれ、外国人が立ち入れない場所になってしまった。

 まず、中国で共産党軍に敗れた国民党軍が国境を越えてシャン州になだれ込んできた。彼らは武力で無理やり居座っただけでなく、軍事資金を稼ぐためにケシ栽培を行い、アヘンを作り始めた。一時は世界のアヘンの8割がシャン州及びその周辺で作られるという事態となった。世に言う「ゴールデントライアングル」はタイ・ラオス・ビルマ国境地帯ということになっていたが、実質上の中心はシャン州だったのだ。ちなみに「山のニューヨーク」ことチェントゥンは、当時「ゴールデントライアングルの首都」と呼ばれていた。そして最大の名物は味噌納豆ではなく生アヘンであった。

 いっぽう、国民党軍とは無関係なところでも、戦争が頻発した。ビルマの軍事独裁政権に叛旗をひるがえしたシャン族や他の少数民族の反政府ゲリラが政府軍と激しく戦うようになった。麻薬組織とゲリラと軍事政権。この三者がくんずほぐれつの戦いを繰り広げるのだから世界屈指の暗黒地帯になってしまった(p.80〜81)。

3.東南アジアの民族形成


 ここで各民族についての理解を深めるため、東南アジアの民族形成の歴史のアウトラインにふれておくこととする。

 東南アジアの民族分布は、大きく、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、シナ・チベット語族の3つの語族から構成され、後2者が東南アジア地域に南下して現在の民族分布に至っていると考えられている。

 古代DNAを含めた遺伝子分析による最新研究によるとオーストロネシア語族は台湾の北方大陸地域に淵源し、オーストロアジア語族は中国南部、シナ・チベット語族は黄河流域に源を発すると考えられている(篠田謙一「人類の起源」中公新書、2022年)。

(1)オーストロネシア語族

 マレー半島のマレー人、インドネシア、フィリピンの諸民族は、東南アジア古代人の生き残りともいわれるネグリト(小さな黒人の意味。タイ南部・半島マレーシアのセマン族、フィリピン群島のアエタ族など)の少人数集団を除くと、オーストロネシア語族(別名、マレー・ポリネシア語族)に分類される。この語族は、東南アジアの他、西はマダガスカル島、東は太平洋諸島、北は台湾の高山族(高砂族)と広範囲に海洋性の分布を有している。

 東はイースター島から西はマダガスカル島にまで及ぶオーストロネシア語族のこうした分布は、他の民族分布同様、「移動説」と「残存説」の2通りの説明が可能である。

 すなわち、移動説は、そうした分布はいずれかの中心からオーストロネシア語族が帯状に移動していった結果形成されたとする説明である。発祥地の想定としては、オーストロネシア語の系譜上台湾諸語が最も早く分岐したとされることから、中国南部や台湾におく考え方がある(大林太良「アウストロネシア語系諸族」平凡社大百科事典)。

 また残存説は、以前は全域に分布していたが、北方民族の南下(の玉突き現象)により、アジア大陸を取り巻く帯状に、南下の影響を免れたオーストロネシア語族が残ったとする説明である。この考え方によれば、帯状の分布の中にある各民族の系譜は余り意味がないということになる。

 この2つの説は両立が可能であり、実際、両方を組み合わせた説明が行われることが多い。例えば、鈴木秀夫「気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ 」NHKブックス(1990年)では、「火」「弓」をあらわす言葉の共通性から、台湾からフィリピン、インドネシアにかけてのアジア周辺島しょ部に加え、大陸沿岸の中国少数民族トン族居住地域、かつてチャンパ国の存在した南ベトナム、またマレー半島を、気候の寒冷化(5000年前及び3500年前がメルクマール)にともなう北方民族の南下によって押し出された、またそれから免れたオーストロネシア語族の分布地域ととらえている。

(2)オーストロアジア語族

 オーストロアジア語族には、ベトナム人、カンボジアの主要民族であるクメール人、タイ・ミャンマーなどに散在するモン人などが含まれる。クメール人とモン人は一括してモン・クメール語族と呼ばれることが多い。

 オーストロアジア語族は、シナ・チベット語族が中国方面から南下する以前は、東南アジア半島部の主要民族であった。またインド方面においてもドラヴィダ人やアーリア人が制覇する以前は重要な民族であった(図録8245参照)。

 東南アジアにおける食文化と民族史の関わり、および魚醤系うま味を開発したのがオーストロアジア系だったとする説については図録0214参照。

(3)シナ・チベット語族

 歴史時代の東南アジア史においては、オーストロアジア語族に属するベトナム人が中国文化の影響を受けてベトナム南部を含め王権を確立し、同語族のクメール王朝がタイ・カンボジア地域に覇権を樹立するとともに、シナ・チベット語族に属するタイ人(シナ・タイ語族に下位分類される)、ビルマ人(チベット・ビルマ語族に下位分類される)が中国国境地帯から南下し東南アジア平地部に移住、政権樹立を行った。

 こうした歴史を食文化の成立とからめて説明した叙述を以下に要約する。

(4)食文化から見た東南アジア民族史

 東アジアから東南アジアにかけての地域は、醤油、魚醤、出汁などうま味成分を含んだ調味料を使用する点に特徴があり、世界の中で他地域にはない「うま味文化圏」が形成されている。石毛直道、ケネス・ラドル「魚醤とナレズシの研究―モンスーン・アジアの食事文化」(1990)は、魚醤やナレズシなど魚介類の発酵食品が、東アジアから東南アジアの島しょ部にまで広がっており、同地域の味噌・醤油といった大豆の発酵食品とともに、こうした「うま味文化圏」の成立根拠になっていることを明らかにしている。

 この地域の中でも魚介類の発酵食品の種類が多く、食生活における重要性が高いのは、海面漁業への依存度がより高い東南アジアの島しょ部ではなく、むしろ淡水魚に特徴がある東南アジア大陸部である。

 このことから、魚介類発酵食品の歴史的な成立過程を探るため、東南アジア大陸部の現在の民族分布に至る民族史を以下のように要領よく概説している。

 「現在のベトナムの国土の北部には、新石器時代以来オーストロアジア系の言語を話すベトナム人(キン族)が居住していたものとかんがえられる。国土の南半はオーストロネシア系の言語に属するチャム族の土地であり、二世紀末には海上交易活動がさかんなチャンパ王国が建国された。南下するベトナム人(キン族)とのながい歴史的抗争のすえに、チャンパ王国が滅亡するのが十七世紀末のことである。

 ベトナムの東側では、二世紀の扶南建国以来、オーストロアジア系の言語に属するクメール族が、現在のカンボジアのみならずタイのおおくの地域を版図としていたし、おなじくオーストロアジア系のモン族もタイに進出していた。雲南方面から南下するシナ=チベット語族のタイ・ラオ系諸族が、北タイのモン族の国を滅ぼすのが八世紀のことであり、十三世紀になると、中部タイがクメールの支配を脱して、タイ人の王国であるスコタイが建国される。

 チベット高原東部から南下するシナ=チベット語族のビルマ系諸族が、それまでモン族の土地であったパガンに王朝を建てたのが十一世紀である。

 したがって、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の南下以前の主要な民族分布は、アンナン山脈の東側はベトナム人とチャム族によって、西側はクメール族とモン族によって占められていたと考えてよい。」

 そして、タイ系諸族やビルマ系諸族の出身地域では、漁業を行わない生活様式を伝統としている点、また発酵による魚類保存の発達が東南アジア大陸部の水田農業、あるいはアジアモンスーンの乾期・雨期交替にともなって河川本流と氾濫原との間を往復する魚類の生態と大きく関連している点から、次のように結論に達している。「東南アジア大陸部における発酵魚の文化のにない手は、インドシナ半島の先住民であるベトナム人・チャム族・クメール族・モン族のいずれかであり、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の侵入以前から、これらの食品がインドシナ半島で発達していたであろうという結論となる。」

 そして、「東南アジアの基層文化を構成する文化要素のおおくは、大陸部から島嶼部へと伝播をとげたものであり、その逆はきわめてすくない。魚介類の発酵食品の伝播も、大陸部から出発して島嶼部にむかったものであろう。」とまとめている。

【コラム】ミャンマー西部ラカイン州の民族問題

以下、ミャンマー西部ラカイン州における複雑で深刻な民族問題についての新聞記事を2つ掲げる。

1.ミャンマー 少数民族に出産制限 スー・チー氏「人権反する」
   (東京新聞2013年5月30日)

 【バンコク=寺岡秀樹】ミャンマー西部ラカイン州は、州内の一部地区に住むイスラム少数民族のロヒンギャ族に対し、一家族につき子どもを二人までに制限する規制を導入した。政府から「不法移民」扱いされているロヒンギャ族の人口増加を食い止めるのが狙い。最大野党、国民民主連盟(NLD)党首のアウン・サン・スー・チー氏は「人権に反する」と非難した。

 AFP通信などによると、規制対象となるのは隣国バングラデシュに近く、ロヒンギャ族の人口が約95%を占める二地区。子どもの数が制限されるだけでなく、一般にイスラムが認める一夫多妻制も禁じられる。具体的な規制方法については不明。

 昨年以降、ラカイン州をはじめミャンマー各地でロヒンギャ族と多数派の仏教徒の間で抗争が頻発し、多数の死傷者が出た。抗争を受けて政府が設立した調査委員会は四月に公表した報告書で「ロヒンギャ族の人口増加が原因の一つ」と指摘していた。州の報道官は二十六日、この報告書が規制導入の背景にあることを認めた。

 こうした規制導入についてスー・チー氏は二十七日、「違法だ。人権にも反する」と批判。スー・チー氏は国民和解を訴える一方、これまでロヒンギャ族に関する発言は控えており、非難の声が上がっていた。

 政府はロヒンギャ族をバングラデシュからの「不法移民」として国籍を与えず、移動の制限も加えており、世界の人権団体などが批判している。オバマ米大統領も、訪米したテイン・セイン大統領に少数民族紛争の解決を求めたばかりだった。

2.闇の正体:ミャンマー宗教暴動/6 汚職、民族問題を複雑化
   (毎日新聞2013年10月31日)

 ミャンマー西部ラカイン州で昨年起きた暴動は、仏教徒女性へのレイプ殺人が発端となり、犯行はロヒンギャ族(ベンガル系イスラム教徒)のグループだと報じられた。だが「実際はカマン族だ」とのうわさを聞いた。

 ラカイン文芸文化協会の女性会長ソーキンティン氏(66)によると、カマンは弓を射る者を意味する。中世期、ラカインの仏教王朝に仕えるため、アフガニスタンから来た傭兵(ようへい)の子孫だという。

 カマン族は、ミャンマー政府が市民権(国籍)法で認定する135の自国民族の一つだが、ロヒンギャ族は除外されており、無国籍状態となっている。

 だが、ロヒンギャ族は1948年に当時のビルマが英国から独立して以降、事実上「民族」扱いされていた。通常は市民権に付随する選挙権も与えられ、閣僚もいた。一時期はロヒンギャ語(ベンガル語の一方言)のラジオ番組もあった。

 州検察庁トップでラカイン族のフラテイン検事正(56)は「当時の政権は人気取りのために(不法移民の)ベンガル人に選挙権を与えたのです。政治ゲームの結果、イスラム教徒の人口を増やしてしまった」と指摘する。

 今の市民権法は旧軍政が82年に制定。これに伴う新たな国民登録証(身分証)の切り替えに際し、ロヒンギャ族への再発行を認めず「国民」から排除した。今は国連の要請もあり、ロヒンギャ族には「ホワイトカード」と称される一時滞在許可証が発給されるが、カードには「市民権の証しにあらず」のただし書きがある。

 レイプ殺人の男たちがロヒンギャ族でないなら、それは何を意味するのか。検事正は「彼らはカマン族だ」と認めた上で「重要なのはイスラム教徒かどうかということです。カマン族は昔、仏教からイスラム教に(集団)改宗した裏切り者ですから」と語った。検事正によると、イスラム過激派でも誰でも、カマン族の2人から証言を得られれば、法的にはカマン族として市民権を取得できるという。つまりカネやコネ次第で融通が利くということだ。

 文芸文化協会のソーキンティン氏によると、本来のカマン族の人口はわずか数千。だが、最大都市ヤンゴンのイスラム教徒のうち1万人はカマン族だと推計する。

 元国会議員のアブタヘイ氏(49)は「ロヒンギャ族」を名乗るが「国会議員になるため、やむを得ずカマン族の市民権を得た」と明かす。ミャンマー有数の大企業の経営者に「ロヒンギャ族出身者」がいるが、取材には応じてもらえなかった。

 ラカイン州最北端部で、父と弟が長く税関職員を務めた男性が匿名を条件に証言する。「軍政期、身分証の発給などほとんどの業務が賄賂絡みでした。窓口で受け取った賄賂は職員全員で職責に応じ配分します。歴代引き継がれたシステムです。公務員は薄給なので、賄賂なしには生活できませんから」

 この国に根付いた汚職風土が民族・宗教対立の構図に絡みついている。【シットウェ春日孝之】

(2009年3月2日収録、7月3日インドの民族事情を図録8245へ移動、2011年10月24日マレーシア・シンガポールの民族構成の由縁コメント追加、2013年5月29日ミャンマーの民族地図・ラカイン人解説を追加、30日コラム追加、10月31日コラム引用記事追加、2015年7月27日The Economist:シンガポール事情追加、2015年10月30日インド人の(注)、11月9日ミャンマー民族地図更新、2016年7月13日【コラム】シャン人(族)とシャン州(ミャンマー)、2020年9月8日インドネシア更新、2023年2月20日篠田謙一「人類の起源」マップ)


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