グラフには、都道府県民がどのような宗教・宗派を信じているか、またその合計値として信仰をもっている人の比率を示した。 各都道府県の県内各地域における上位3宗派の構成については図録7770d参照。現実の宗派・宗教への信仰ではなく、祖先信仰、呪術的心性、無常観、死後の世界を信じるかといった宗教的意識の地域状況、及びここでの信仰割合の年齢構造については図録7770j参照。 信仰を有している者の全国平均(都道府県の値を人口比で加重平均したもの)は31.2%である。世界価値観調査では宗教をもっている者の合計は41.2%であったので、これよりはやや低い数字となっている。ちなみに「無宗教」という選択肢への回答は、都道府県民調査では64.0%(選択肢は「信仰はしていない」)、世界価値観調査では、51.8%(選択肢は「宗教をもっていない」)となっていた。信仰はしていないが家の宗教はあるということから世界価値観調査の方が宗教ありが多くなっているのかも知れない。 都道府県別の結果を地図に表示したものを見ると、信仰ありの県民割合は、静岡・長野以西と以東ではレベルの差が目立っており、明らかに西高東低の傾向を示している。 西日本の中で例外的に信仰ありの比率が低いのは、高知や沖縄である。 また、信者が最も多い宗教・宗派の地図を見ると、信仰ありの比率の高い西日本・北陸地域では、「浄土宗・浄土真宗系」が多く、信仰ありの比率の低い関東・東北地方では「天台宗・真言宗系」あるいは「禅宗系」が多くなっている。特に禅宗系は他がすくない分、東北で目立つ。また西日本の中でも四国や岡山では天台宗・真言宗系が多い(東日本の中で多い北関東より比率的には大きい)。なお、日蓮とその弟子が多くの寺を開いた山梨では、唯一、「日蓮宗系」が最多となっている。 こうした宗教分布の状況を、全国県民意識調査の報告書(「現代の県民気質」)では、こう総括している。 信仰ありとなしの「分かれ方の背景には、地理的条件、あるいは仏教の伝播という文化的・歴史的背景の違いがある。関東以北が歴史の表舞台に登場してくるのは、鎌倉時代以降である。それまでは奈良や京都が中心で、初期の仏教もこれらの地域を中心に普及し、その後徐々に地方へ波及していった。そして、鎌倉時代には臨済宗や曹洞宗などの禅宗が栄える。こうしたことが、関東以北では宗教を信仰している人が少なく、その一方で東北地方では禅宗の信者が多いことと関係していると思われる。 トップが福井であることなど信仰ありの地域は油揚げ好きの地域と重なっている点が興味深い(図録7714参照)。 天台宗は、徳川家康の側近である天海が天台宗の僧であることから江戸時代には勢いを盛り返した。今でも天台宗の寺院が関東地方、特に北関東に多いのは、家康が信仰した宗派であることも関係している。江戸城の鬼門(北東方向)に天台宗の寺や不動尊を建てることで、江戸を守るという天海ならではの風水による助言が影響しているのである。江戸城の北東に寛永寺、さらに延長上に墓所として日光東照宮を建てたのもこの考え方からである。なお、徳川家の菩提寺は元々松平家の宗派である浄土宗の増上寺だが、三代目家光は天海が建立した寛永寺での葬儀を命じ、四代目、五代目はお墓を寛永寺にたてた。もちろん元々の菩提寺増上寺はだまっておらず、その後、将軍葬儀は交互に営まれたという。 鹿児島では藩政時代を通じて真宗(一向宗)は厳しく禁じられていた。その理由は明確ではないが、主には念仏のネットワークで百姓が団結し一揆に発展するのを恐れたからという政治的な理由で禁じられていたと言われる。富山の薬売りも真宗布教の恐れから出入りを禁じられたので、薩摩藩にとって中国向けに必要だった抜け荷の昆布の北前船を通じた入手を手助けすることでやっと営業を許されていたぐらいである(ちなみにこの縁で富山の薬売りは戊辰戦争では薩摩の情報スパイの役割を果たした)(北日本新聞社「海の懸け橋 昆布ロードと越中」2007年)。 そうだとすると図録のように鹿児島で浄土真宗(特に西本願寺派)のシェアが大きいのは不思議である。それは以下のような明治維新の経緯による。 維新後、日本仏教界最大の法難が訪れる。新政府が出した神仏分離令に端を発した仏教への迫害、廃仏毀釈である。鹿児島県では寺院が一つ残らず打ち壊され、宮崎県や高知県でも大方の寺院が消滅した。特に鹿児島県では江戸時代の寺院分布が完全にリセットされた。ところが、廃仏毀釈の嵐が止み、信教自由に方針転換となったのち、この寺院空白地帯において浄土真宗が大布教を開始。その結果、浄土真宗系寺院のシェアを大きくなったのである。この躍進には、佐幕派であった東本願寺に対抗する意味で反幕派だった西本願寺による民衆の馴化と慰撫を期待した明治政府、大久保利通の後押しもあったという。 北関東の天台宗、鹿児島の浄土真宗と歴史の転換点における政治的な動きの名残りが今でも都道府県の信仰分布に認められるのである。 西日本では例外的に高知と沖縄で「信仰はしていない」という人が多いが、沖縄では民間信仰が盛んで、仏教は民衆に広まらなかったという指摘もあり、また、高知とともに文化や政治の中心から遠かったという地理的な条件も関係していると思われる。」 なお、上のグラフでは、この他、全国的に信者が分布している創価学会が大阪と広島で特に比率が高い点、またキリスト教信者が知識人の多い東京、隠れキリシタンの伝統をもつ長崎(コラム参照)、そして米軍の影響が強い沖縄で多い点などが目を引く。 日本の仏教の歴史はインド発祥の仏教の歴史を逆行し、最新版の密教からはじまり大乗仏教、そして小乗仏教の順で受け入れたという佐々木閑氏の考え方がある(注)。そうだとすると日本列島の信仰の分布も西から東へとだんだん古い信仰が主となるかたちとなっていると解することが可能である。 (注)インド発祥の仏教の歴史を、日本仏教の歴史と対比してみるのは興味深い作業である。インドでは、瞑想による自己鍛錬を基本とする釈迦の仏教から始まり、やがて、さまざまな種類の神秘力による救済を想定する大乗経典が次々と生み出されるようになった。そして最後にはそれら種々の神秘的救済を全て統括して一元化しようとする密教が登場し、それがヒンズー教と同化することによってインドの仏教は消滅した。 日本仏教は、その最終段階の密教を導入するところから出発した。つまり最後の、そして最新型の仏教から出発したのである。やがてその密教の教えでは救われないと感じた人たちが、密教以前に成立した種々の大乗思想をそのまま保存している天台宗の教義の中から、それぞれの個性に応じて単一の救済方法を選び取って独自の教団を作った。これが12世紀から13世紀にかけての日本仏教の状況である。禅宗を釈迦の仏教の大乗仏教版として見るなら、この時、釈迦の仏教も部分的に入り込んできたと考えることも可能である。日本仏教は、密教から、密教以前の大乗仏教世界へ、そして部分的にではあるが釈迦の仏教世界へと時代を逆行したのである。 この状況が現在から100年ほど前まで続いていた。そして明治期、日本が鎖国をやめ、海外の文化を積極的に取り入れ始めると、今度はスリランカや東南アジア諸国から本格的な釈迦の仏教が伝わってきた。その結果、日本仏教がもう一段階、時代を逆行し、仏教の出発点にまでたどりつくことになった。 日本仏教の歴史を、インドで誕生した仏教が歴史的に展開したプロセスの逆行現象として捉えることで、その大枠を理解することができる。このような特異な歴史の結果として現代の日本仏教は、釈迦の仏教から密教まで、ほぼすべての仏教思想を包含する複合的な宗教世界を構成しているのである(2023年4月6日、nippon.com(佐々木 閑) シリーズ「日本の仏教」 第6回:鎌倉新仏教の誕生)。
(2009年1月7日収録、2022年2月22日コラム、7月14日信仰ありランキングを図に付加、2023年4月8日佐々木閑仏教史の(注)、北関東に天台宗が多い理由、鹿児島における真宗の高シェアの理由)
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