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 現代の日本では、人より貧しいという相対的貧困を感じる人はいても、生きていくギリギリの最低限の生活水準以下の絶対的貧困に陥った記憶をもつ者はほとんどいない。また、豊かさに慣れてしまった現代で、かつて日本が長らく貧困国として知られていたことを想像できる人も少ない。こうしたことを気づかせてくれる統計データをここで紹介しよう。

 アフリカなどの低開発国や人口大国の中国、インドで飢餓や貧困に陥っている人が多かった時期には世界の飢餓人口や貧困人口やその割合がしばしば話題となったが、当時の貧困の定義は1日1ドル以下の生活といったかなり大雑把なものだった。

 その後、貧困人口(あるいは相対的貧困でないことを明示する極貧人口)の測定方法はより精緻なものとなったが、皮肉なことに、それを適用する機会は減ってしまった。むしろ、過去を振り返る道具としての役割が強まったと言えるかもしれない。

 ここでは、そうした新しい測定方法による極貧人口の日本や主要国における比率の長期推移をグラフにした。世界全体の極貧人口の長期推移については図録4630参照。また、この測定方法の概要についてもそこに記述しておいた。

 表示選択当初図は、日本、韓国、中国という東アジア3カ国と英国、ドイツ、米国という欧米3カ国の極貧人口比率の長期推移を示した。

 東アジア3カ国のうち、中国は19世紀初頭には極貧人口の比率は7割台とほぼ世界平均と同じであり、特段、貧しい国ではなかった。これに対して、日本と韓国は極貧人口が9割を大きく越え、困窮者ばかりの貧しい国だったことが印象的である(このためもあって身長は中国が日韓より高かったことは図録2196参照)。

 この状況はほぼ19世紀中は同じだった。産業革命を経た欧米諸国の極貧人口比率が19世紀には低下を続けていたのに対して、中国の同比率が横ばいだったという点には、中国の近代化が遅れたという側面とアヘン戦争(1840〜42年)、アロー号事件(1856年)などを通じ、中国に権益を確保しようとする英国などによって近代化を阻害されていたという側面とがあろう。

 江戸時代から明治時代にかけては、なお、経済の近代化がなかなか進まず、極貧人口比率も低くなる気配が見られなかった日本であるが、ようやく1890年代ごろから同比率はやや低下をはじめ、特に1910年代、すなわち大正時代には同比率が8割まで大きく低下した。ようやく近代化による社会の改良のきざしが見え始めたともいえよう。もっともこの段階では、なお、中国より極貧人口比率は高かった。

 韓国も日本とほぼ同様の状況から出発し、日本よりさらに近代化が遅れていたが、1910年の日韓併合後、極貧人口比率は一時期大きく低下したが、1920年代には再度同比率が高まってしまった。植民地では植民地本国より豊かになることはありえないかのようである。その後の戦前期の日韓は世界大戦に突入するまでは極貧層は6割台まで縮減したが、中国は辛亥革命(1911年)の後、日本からの侵略、国共内戦などにともなう混乱で1949年の中華人民共和国成立まで極貧人口比率は上昇傾向を続けた。

 太平洋戦争と戦後の混乱で、一時期、日本の極貧人口比率は跳ね上がったが、戦後の経済の高度成長がはじまるとわずか10年余の期間に一気に極貧人口比率は8割以上から1割未満への急落した。これほど短期間にこれほど大きく極貧層を減らした実績は過去どの国にもなかったと考えられる。奇跡の経済成長として、長くかえりみられてもよい歴史である。

 それに近いのは最近の中国の極貧人口比率の低下である。毛沢東主義による大躍進ともよばれた強引な社会主義国家建設は、実は、極貧層の縮減に余り貢献しておらず、むしろ1959〜61年の「今世紀最大の飢饉」を招くなどマイナス面が目立っていた。しかし、1978年の改革開放路線がスタートすると「世界の工場」化を通した急速な経済成長にともなって基本的には極貧人口比率は大きく縮減していき、2013年にはついに世界平均を下回るにいたった(貧しい国とは言えなくなった)。

 韓国は1950〜53年の朝鮮戦争による社会混乱もあって極貧人口比率の低下は日本よりかなり遅れ、1960年代半ばからの「漢江の軌跡」とも呼ばれた急速な経済成長により、日本から約10年遅れて、極貧人口比率の急減を実現した。極貧層の消失が日本から遅れていたこのときの「ずれ」の分だけ、日本人の心に「貧しい隣国」のイメージが焼き付いたとも考えられる。それ以前には日韓の間に、極貧の程度にそれほど差はなかったのであり、ずっと昔から貧しい隣国だったという思い込みがあったとするなら、このときのイメージが過去にさかのぼって印象づけられた錯覚によるものだった可能性が大きい。

 欧米3カ国については、世界に先行して戦前にすでに極貧人口比率が低下していたという共通点があるが、3カ国の間には興味深い差異を読み取ることが可能である。

 世界で最初に資本主義経済を発達させた国である英国がもっとも早く極貧人口比率を下げていったかというとさにあらず。実は、後進資本主義として知られるドイツよりも19世紀前半の段階では、英国の方が極貧層は多かった。これは、英国でいち早く資本家の搾取によってプロレタリアートという極貧層が生まれていたというより、エンクロージャー(囲い込み)によってヨーマン(独立自営農民)ないし小土地所有者の没落が促され、彼らが工業労働者として都市へ流出するか、農業労働者として農村にとどまるかして極貧層を形成し、その結果、資本主義経済が本格稼働したからと考えられる。マルクスが定義した資本主義的蓄積に先行する原始的蓄積(原蓄)で労働者極貧層が生まれためなのである。

 共同体農民がなお存続していたドイツでは極貧層は英国ほど多くはなかった。西欧植民地として出発した米国では肥沃な処女地も多く農民は比較的豊かであったため、1861〜1865年に起こった南北戦争の混乱で一時期増えたものの基本的に極貧層は少なかった(そのため背も高かったという点については図録2195、図録2196参照)。

 極貧層の存在で経済を成長させた英国は、1930年代以降は、むしろ極貧層の削減において後進資本主義国ドイツを上回ることとなった。ドイツは1914年以降の第1次大戦での敗北、ナチス・ドイツの、第2次大戦での敗北、東西ドイツの分裂とたどる社会変動の中で1950年前後まで極貧層を持続的に減少させることはできなかったのである。

 しかし、ここで取り上げた欧米3カ国は、戦後しばらくして、世界やアジア・アフリカで極貧層が大規模に残る中でほぼ極貧層ゼロの社会をつくることに成功した点でやはり先進国と呼ばれて然るべきであろう。

 表示選択で見ることができるもう1つの推移図について、次にコメントしよう。

 今は欧米先進国の一角をなしているフランス、イタリアであるが、第2次大戦までは、国内人口の半分以上が極貧層だった点が驚きである。特に、イタリアは1870年代〜1910年代には世界平均を大きく上回る極貧人口比率を示し、まぎれもなく貧困国だった。豊かな米国にイタリア人移民が押し寄せたのはこの時期である(図録8734参照)。表示選択のも1つの図と見比べれば明らかなように、仏伊は英米独より貧困層を多く抱える国だったのである。

 フランスは第2次大戦後、極貧層を急減させたが、イタリアはファシズム下の第2次大戦中、極貧層が急増した一時期を経て、1960年代まで多くの貧困層を抱え(映画「自転車泥棒」は1948年公開)、国内の深刻な南北格差が問題となっており、人口の社会移動も出超だった(図録1172参照)。イタリアで極貧層がほぼゼロに近づいたのは1970年代に入ってからである。

 中国と並ぶ人口大国インドは、第2次大戦以前の時期には、極貧人口比率がほぼ世界平均の水準で推移していた。つまり中国と異なって貧困度はそれほどではなかった。ところが、戦後、1970年までは、人口が急増した影響もあって極貧人口比率が上昇し、世界との差が大きくなり、貧困地域の代表として考えられるようになった。しかし、マルク・レヴィンソンがいうところの第3のグローバル化が本格化した1990年代には、同比率が大きく低下をたどり、今や1割以下の水準となり、必ずしも貧困国とは呼べない状況にまで至っている。

 ラテンアメリカのブラジルは1980年以降に極貧人口比率を急減させるまでは、インド以上に長い間、世界の貧困国としての特徴を維持し続けていた。

 最後に、ロシア、ウクライナの推移を見てみよう。

 19世紀半ばまでロシアは極貧人口比率が世界平均を越える貧困国だったが、ロマノフ王朝アレクサンドル2世下の農奴解放(1861年)、西欧化改革、その後の工業化により、同比率が世界平均だけでなくフランスの水準も大きく下回るに至る経済発展をとげた。帝政ロシアへの懐旧の情はここらへんに根拠があるのかもしれない。

 ところが、1904年の日露戦争後、第1次大戦に巻き込まれ、経済が混乱し極貧層も増加する中で1917年にはロシア革命が起り、社会主義ロシアにおいて1921年初めからはじまった大飢饉により極貧層がさらに7割以上にまで急増することとなった。

 ソ連下のウクライナでも拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921〜22年、1932〜33年)が起ったとされる。後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された(ウィキペディア)。

 さらに、ロシア、ウクライナでは、第2次大戦の対ドイツ戦の時期にも極貧層の縮小が止まっている。

 ウクライナの極貧人口比率は長らくロシアを大きく上回って非常に高く、ウクライナはまさに貧困国の性格が強かったのであるが、ソビエト連邦下の社会主義時代に、両国の差は大きく縮まった。そして、ロシアは1960年代に極貧層が先行してゼロとなり、1991年のソ連崩壊までにはウクライナも極貧層がゼロとなった。

 社会主義経済の下で達成したこうした成果を社会主義体制のおかげ、あるいはロシアを中心とするソ連邦のおかげと考える者がロシアやウクライナにいてもおかしくはない。

 ところがソ連崩壊後の社会混乱は、その後10数年にわたって、ロシア、ウクライナの国内に、再度、極貧層を国内に大量に生むこととなった。一度、極貧層ゼロを達成した後になって再度こうした極貧層を生んだ歴史は旧ソ連諸国を除くと存在しない(平均寿命の推移からこの点を見た図録8985参照)。それだけに両国民には理不尽さを感じた者も多かった筈だと想像される。

(2022年5月18日収録)


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