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 江戸時代後半(近世後期)の地方別の人口動向をこの時期を通じ幕府が行った全国人口調査によって見てみよう。ここでの地方区分は速水融「歴史人口学研究」(藤原書店、2009年刊)の第1章、第3章によっている(図の(注)を参照)。

 この時期の日本全国の人口動向やその根拠である幕府調査の概要については図録7857でふれたが、全国は19回、地方は12回の調査結果資料が見つかっている。ここでは12回分の地方別の結果を原数値と指数で示している。

 幕府調査の人口には武士や地方によっては年少者や被差別民などが含まれていないので総数自体の各地方毎の比較には一定の留保が必要だが、調査方法や対象者は各地方で毎回同一と考えられることから推移には信ぴょう性が高い点を頭に置きながらデータを読む必要がある。

 江戸時代後半における各地方の人口動向は3つ大飢饉の影響を大きく受けている。すなわち、享保飢饉(1733年、蝗害による大凶作)、天明飢饉(1781〜89年、冷害・噴火による大凶作)、天保飢饉(1837〜38年、凶作・流行病)という3回の飢饉である。

 こうした大飢饉の影響を受けている時期とそれ以外の平常の時期とに分けた地方別の人口増減の分析については、後段でふれるとして、まず、江戸時代後半を通じた各地方の人口動向を概観するため、人口の原数値と1721(享保6)年を100とする指数の折れ線グラフを見てみよう(さらに各地方の国別人口の推移については図録7859でふれたので参照されたい)。

 人口が最も多いのは江戸を抱える南関東である。当初年である1721年の上位5位の順位は、南関東、近畿周辺、近畿、東海、北陸だったが、最終年である1846年には、南関東、近畿周辺、北陸、東海、山陽となっており、近畿の順位低落と北陸、山陽の順位の上昇が目立っている。

 地方別の人口動向を指数で見るとこの時期に人口が増加傾向にあった地方と減少傾向にあった地方があり、その違いは3割増対3割減とかなり大きかったことが分かる。

 増加傾向が目立っているのは山陰、四国、南九州、山陽、北陸などであり、減少傾向が目立っているのは、北関東、東奥羽、近畿などである。江戸を抱える南関東も人口動向は全体としてマイナスである。東北地方のなかでも西奥羽は東奥羽に比べて人口動向は比較的良好である。

 こうした地域対比は、海上交通路の発達がこの時期著しかった北前船経済圏に属する日本海側及び西日本の地域ほど経済発展が著しかったことをうかがわせている。

 事例研究からは商品作物の栽培や都市手工業、農家副業などの商品生産の発展、あるいは都市化の進展などで経済発展が著しかったと普通考えられている関東、近畿、近畿周辺の人口動向がマイナス傾向を示しているのは何故であろうか。

 北関東の人口減少は東奥羽と同様の冷害凶作による影響が考えられる。しかし、南関東や近畿では同じ理由とは考えられない。そこで想定されるのは近代以前の社会における「都市蟻地獄説」である。

「そこで一つ考えられることは、これらの地域の経済的発展がかえって人口の停滞をもたらしたのではないかとい うことである。なぜかといえば、近代工業社会成立以前の都市は、予防医学の未発達、医療や公衆衛生の不備によって死亡率は農村よりはるかに高く、一方、出生率は、生理的にも文化的にも低く抑えられるから、差引き自然増加率はマイナスとなるという性格があった。加えて食糧自給力のない貧民層は、食糧価格のちょっとした高騰によっても直ちに飢餓にさらされ、特に技術的に輸送手段が限られ、行政的に分権的支配が行われている状態の下では、その影響は一層ひどかったと考えられる。そこへ疫病が流行すれば、死亡率は非常な高さに達した。したがって都市は不断に農村からの人口流入を必要とした」(速水融「歴史人口学研究」藤原書店、2009年、p.32〜33)。

 明治期はじめの人口統計によれば、都市化率(人口5千人以上の都市の人口比率)は全国12.9%に対して、ここでの地方区分の近畿が32.7%、南関東が20.2%と高く、これに次ぐ北陸の16.0%を大きく上回っており、都市化が進んだ地方だった(同書、p.34)。このため、近代以前の江戸時代においては経済発展や都市化が進んでいた反面、人口の増加は抑えられていたと見られるのである。

 表示選択では、地方別の人口増減を平常期間と災害期間に分解して示した図を掲げている。

 災害年の人口減少は、東日本ほど大きく、西日本の近畿以外では減少していなかったことが分かる。災害が寒い地方を中心にダメージを与えていたことがうかがえるのである。

 また平常期間をふくめて、大阪を含む近畿・近畿周辺、及び江戸を含む関東で人口減少が激しかった点に、現代とは正反対の傾向を見て取ることができます。これは、上述の「都市蟻地獄説」によるものであり、近代以前では、洋の東西を問わず、都市の衛生環境が悪く、死亡率が高かったため、またしばしば都市の勤労者は独身が多かったことから出生率も低かったことから、人口は地方から吸い寄せられ、都市で凹んでいく傾向がある影響によるである。

 こうした減少要因を取り除いた平常期間だけの人口動向を見てみると、見事に、北前船経済圏ともいうべき地域で人口が大きく増加していることが分かる。特に、北前船のメッカともいうべき北陸では、この間、60万人と全国最大の人口増となっている。

 次の図で、平常期間の人口増減を前半と後半に分けてみると、前半は四国も増加が大きかったが、後半は北陸や山陽の人口増が目立っている。北前船経済圏の中でも西から東へのシフトが起った可能性がある。また、前半には低かった近畿、近畿周辺が後半には大きな人口増加に転換している。これは後半に西廻り航路が琵琶湖経由ルートに取って代わり主流となった影響かも知れない(図録7809参照)。

 災害期間の人口増減を3つの飢饉に分けてみると、享保飢饉と天明飢饉では、人口減の東日本傾斜が明確である。特に天明飢饉期には北関東、南関東、東奥羽で10%以上と大きな人口減を見ている。これに対して、天保飢饉では、北陸や山陽・山陰を含めて、むしろ、北前船の影響が大きい地域でも人口減が目立つようになっている。北前船を通じて伝染病がこの圏域に広がったための人口減の可能性がうかがえる(注)

(注)天保の飢饉は基本的に稲作が冷害を受けたためであるが、「この人口危機の特徴は高熱と蹴りをともなう疫病の流行であった。(中略)1834年から40年にかけてとくに人口減少率が大きかったのは、出羽、陸奥、北陸、畿内周辺、山陰、山陽、蝦夷地であったから、大阪と日本海航路でつながりの深い地域との間で、なんらかの感染症が流行したのではないかと推測される」(鬼頭宏「図説人口で見る日本史」PHP研究所、2007年、p.90)。

 このように、北前船経済圏ともいうべき地域では、北前船の時期的な盛衰や地域別の北前船の影響の大きさに対応した人口の増減が見てとれる。これは、ちょうど、戦後の高度経済成長期に、臨海工業地帯が発達し、その結果、太平洋ベルト地帯に人口が集中したことを思い出させる。それほど大きな経済的インパクトを北前船はもっていたと結論づけられるであろう。当時は、富山などの北陸地方が全国の経済を引っ張っていたと言ってよろしかろうと思う。北前船経済圏については2013年の富山市民大学での講演資料を参照されたい(ここ)。

(2022年10月25日収録)


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