業種は同業組合の地域割り組織(番組)の特徴などから全域型、都心型、特化型に分けられる。 全域型12業種(米穀問屋から銭屋まで)のうち店舗数が多いのは舂米屋(つきごめや)と薪炭仲買(すみたきぎなかがい)である。これらはまさに全域展開であり、武家地の番町と農地の向島という例外的地区を除いてすべての地区にまんべんなく店舗を展開している。米穀問屋や両替屋もほぼこれに準じている。 舂米屋は米穀問屋からコメを仕入れて精米して小売する現代の米屋のことであり、薪炭仲買は燃料屋であり、現代のLPガス屋やガソリンスタンドのような業態である。毎日消費する食品やエネルギーであり、重量物でもあるので現代と同様、住宅地に散在する立地形態が特徴なのである。また、両替屋は現代で言えば銀行の支店のような存在なので分散的なのである。 全域型とはいえ、材木仲買等は深川に集中している(23%)。これはこの地区に木場など材木の集散地があったからである。また、味噌問屋も本郷湯島に集中している(59%)。これは本郷に生産と販売の拠点があったためである。さらに塩干肴(しおほしさかな)問屋は日本橋地区に偏っており、都心型ともいえる地域分布である。 都心型に属する薬種(やくしゅ)問屋、あるいは呉服問屋など服飾系は日本橋北に集中している。戦後日本の東京下町に分布している問屋集団(図録7832で取り上げた下図参照、今は名残りが残っているに過ぎない場合も多い)は、起源が江戸時代にまで遡れるものといえよう。 特化型としては、幕府から旗本・御家人に支給される米の換金や武家への融資を行う仲介業である「札差」が浅草蔵前に全店舗が集中している。札差は重量物を運搬する便宜もあり、武家たちに俸禄米が分配される蔵前に店がないと商売にならないのである。 武家に奉公人を世話する「人宿」は「日本橋・芝・赤坂・下谷と武家地に隣接している地域に集中して立地している。また、大名行列の荷物を運ぶことの多い飛脚屋も、日本橋から芝・高輪あたりと東海道の起点をなすエリアに集中している」(前掲書、p.69)。 以上のような地域分布のパターンを各業種の開廃業の流動パターンとともにまとめると以下の通りである。 「米屋さんや炭屋さんは、株の譲渡や改廃が頻繁で流動性が激しく、10年ほどで店主がくるくる交代する短命な業種で、番組ごとに営業範囲を棲み分けることで江戸全域をカバーする店舗展開をしている。呉服屋さんや薬屋さんは株があまり移動せず固定的で店主も30年ほどじっくり継続する長寿な業種で、番組はつくらず、店舗は日本橋付近の繁華街にぎっしり集中している。」(p.76) さらに、各店舗の開業年次データから時系列的な業種展開をまとめると以下の通りである。開業年次はそれぞれの業種でだんだんと増えて来るというより、ある時期から急に増えはじめるという動きを示している。 江戸の商店の類型別登場数の10年ごとの推移
「特化型のうち札差が1720年代にまず登場し、20年ほど後の1740年代から薪炭仲買など必需品供給の全域型ネットワークが構築されはじめ、そこからさらに60〜70年を経て、1801年から1820年あたりに荒物問屋や呉服問屋、水油仲買などの都心型店舗が日本橋地区に登場、という順序となる。二大類型のうち、全域型が先、都心型が後という結果が出た。しかも全域型は順調に増え続けるが、都心型については登場したあと、ほどなく新規開店の動きが止まる」(p.118〜119)。都心型の新規開店ストップは日本橋を越えて増加するほど大きな需要がなかったためと山室氏は見ている。 なお、江東区の深川江戸資料館に舂米屋の実物模型などを含め天保年間頃の深川佐賀町の情景が再現されているのでイメージをつかむのに便利である。 ここでふれられていない飲食店、居酒屋など外食産業については、山室氏の同書からのデータを図録7840に掲げたので参照されたい。 (2015年8月13日収録、8月16日類型別登場数の10年ごとの推移の表追加、12月8日切絵図リンク先を国会図書館デジタルコレクションに変更)
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