死後の状況、すなわち葬制の時代変化について、ステップ毎に、以下の4点の変化を見てみよう。上の図録には、葬儀の場所を除く3点について掲げた。

・死亡の場所 〜自宅から病院へ〜
・葬儀の場所 〜自宅から葬祭場へ〜
・埋葬方法 〜土葬から火葬へ〜
・墓石の銘 〜個人名から家名へ〜

1.死亡の場所 〜自宅から病院へ〜

 戦後、死亡の場所は、自宅から病院・診療所へと大きく変化した。自宅が病院・診療所を上回っていたのは1970年代前半までである。戦死や事故死・変死に対して、家族に見守られながらの平穏な死を意味する「畳の上で死にたい」という言い方が通用しなくなったのもこうした変化による。

 ただし、病院・診療所の割合は2000年代後半から低下傾向にある。これは、訪問診療の普及などにより自宅の割合が低下からゆるやかな上昇に転じたことと介護施設や老人ホームなど老人施設で無くなる高齢者が増えたためである。

 2019年から22年にかけては新型コロナの影響を見るため毎年のデータで作図した。新型コロナ感染症の患者が急増し、外来に行きにくくなり、一般病床が逼迫したため、自宅での死が急増したのではないかという点を確認するためである。確かに図を見ると、2019年から20年、21年にかけては自宅死がそれまでの傾向以上に増加しているともいえる(この点の国際比較は図録2071参照)。

 日本の場合、海外と比較して病院が多く、老人施設が少ない点については、図録2070参照。

2.葬儀の場所 〜自宅から葬祭場へ〜

 死亡の場所が自宅の時代は葬儀も自宅が多かったが、死亡の場所が自宅から病院・診療所に変わっても葬儀の場所は、しばらく、自宅であった。すなわち、死亡後に遺体は病院等から自宅に搬送されていた。「集合住宅でも遺体を抱いて運んだり、棺を斜めにしたりとなんとか工夫して運んだという。また深夜などでも搬送の依頼があるため、葬祭業者は24時間体勢で対応している。」(勝田至編2012)

 ところが、1990年代に入ると、葬儀の場所は、自宅や寺院から葬儀専門斎場に移行するようになった。東京都生活局「葬儀にかかわる費用等調査報告書」2002年によれば、自宅葬儀の割合は1995年の42%が2001年には11.9%となっている(前掲書)。

 これと平行して、葬儀の手伝いとして近所の人や職場の同僚は減り、親類のほかは、業者任せとなっていった(図録2383「葬儀を手伝った人」参照)

3.埋葬方法 〜土葬から火葬へ〜

 驚いたことに、古代以来、中世前期まで、「一般庶民は風葬、すなわち地上に死者を置いてそのまま帰るのが普通だった」(前掲書p.118)これは発掘がさかんに行われているにもかかわらず一般庶民の墓がほとんど見つからない点や放置された死体が犬や烏に食われ、犬が死体の一部をくわえて屋敷に持ってくるため五体不具穢(ごたいふぐえ)による5日間の公的行事等の忌避を余儀なくされたことが京都の貴族の日記にしばしば記される点からも明らかだとされる。

 その後、埋葬を前提とした墓が、10世紀後半から先祖の霊の守りなどを期待して屋敷墓が、また、12世紀後半から潜在需要を掘り起こした僧侶の活動により共同墓地があらわれたという(p.123、p.135)。

 火葬はインド起源であり、仏教の影響で我が国でも皇族・貴族・僧侶からはじまった。地方では10世紀頃から火葬は減少したが、12世紀からは復活・増加したという(p.126)。

 そして、その後、鎌倉新仏教各宗派や念仏聖、一遍の流れをくむ時衆の徒(秀吉、家康の出自でもある)、あるいは寺院組織と離れて出現した専門の三昧聖(さんまいひじり)が、放置された風葬・行き倒れ死体による死穢の災いからの防御、そして一般人の火葬や葬儀に深くかかわるようになっていった(宮本常一2012、第3章3賤民のムラ)。

 近世には、「火葬の大阪、土葬の江戸」といった地域色もあったが、埋火葬の担い手としては、@三昧聖(おんぼう、御坊などともいう)や非人番・かわた(穢多)などの賤民、A賤民でない百姓・町民、B寺院関係者、Cこれらの組み合わせの4ケースがあったとされる(勝田至編2012p.220)。

 グラフのように、現在は、火葬がほぼ100%となっているが、「火葬が主流になったのはそう昔のことではない。数十年前までは農村部では土葬が主流であった。古くから火葬が行われていたのは都市部、および浄土真宗のさかんな北陸など一部に限られていた」(前掲書p.2)データでは戦前の1925年には火葬比率は5割以下であった。

4.墓石の銘 〜個人名から家名へ〜

 戦国・江戸時代以来、墓石の銘としては、個人名が基本であった。ところが、18世紀には、夫婦名や複数人墓が増え、19世紀には個人墓を凌駕するようになる。現在主流の○○家の墓が現れたのは明治維新後の19世紀末である。

 明治民法(1898年)では、「系譜、祭具及び墳墓の所有権は家督相続の特権に属す」と規定された。それまで貴族や武士、あるいは豪農など社会の特権層に限られていた家制度が一般大衆にまで法的に及んだといえる。多くの人々がこれを受け入れたため、家の墓を守り祖先の祭祀を絶やさないことが子孫、特に家長の本分であり、またそうしたことが日本古来の風習であると認識が高まり家墓(○○家の墓)が普及したと考えられる。戦後になって、家督相続制度は消滅したが、家の考え方は存続し、家墓は、むしろ、20世紀後半からの墓石建立数の激増に伴って大きく増加した。しかし、最近は、家族のあり方も大きく変化したため、家墓にかわって、「夢」とか「一期一会」といった字句を銘とした墓が増えている。

(参考文献)
・勝田至編「日本葬制史 」吉川弘文館、2012年
・宮本常一「民俗のふるさと 」河出文庫、2012年(原著は1964年)

(2013年10月7日収録、2024年3月17日死亡場所更新、3月18日2019〜22年毎年表示)


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