関ヶ原の戦いがあった1600年には、まだ、江戸の人口は6万人と京都の30万人、大坂の11.3万人を大きく下回っていた。元和元(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅び、江戸幕藩体制が確立すると江戸の人口は大きく伸びていき、3代将軍家光の最終年である慶安3(1650)年には京都と並ぶ日本の最大都市となった。 その後も江戸の人口は伸び続け、将軍吉宗の没年の一年前である1750年には100万人を越えている。首都機能が江戸に移り、京都の人口は大きく減少し、同年には大坂をも下回った。 100万都市への躍進の結果、江戸は人口規模的に北京やロンドンを抜いて世界1の都市となった可能性が高い(図録1169参照)。 しかし、遅いか早いかの違いはあるものの近世後半には大都市の人口が減少または横ばいに転じていたことが図からうかがわれる。 その要因としては「プロト工業化」と「都市蟻地獄説」が考えられている。 三都人口推移図の原資料である高島正憲「賃金の日本史」ではこの点が次のように述べられている。 この大都市部での人口減少の動きは、「近世半ばから勃興する農村部での農村工業と商業の発展の時期、いわゆるプロト工業化の時代とリンクしており、この時期、絹・綿などの繊維工業、酒・醤油・味噌といった醸造業といった今でも伝統工業として在来に存在する農村工業が列島で盛んになっていった。また、各地方の中小都市においても農村加工品を生産する商業・サービス業が発展した。(中略)それまで農村部から供給されていた低賃金の労働者を都市部で確保することが難しくなるのである。これは現代でも途上国においてみられる転換点の理論でもあるが、似たような傾向が近世後半の日本でも発生していた。これ以外にも、都市蟻地獄説のように、都市部が衛生環境の悪化による伝染病の温床となり、また、家族をもつことが困難で出生率が低いため人口を維持することが難しく、都市は農村よりの流入人口によって人口を維持せざる得なかった背景があった」(p.229〜230)。 そして、明治維新によって江戸幕藩体制は崩壊し、幕府所有の江戸の藩邸は江戸城などと共に明治政府に接収され、跡地は主要官庁や大学や後に企業の土地などに利用された。これにともない、江戸に集まっていた各藩武士やその家族も地方に帰郷したので、関連する商業・サービス業従事者を含めて江戸の人口は急減し、1873(明治6)年には60万人を下回った。 (2023年11月9日収録)
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