1.縄文時代から弥生時代以降への変化 各地域の人口規模の順位の変動で最も変化が激しかったのは図でも明らかな通り縄文時代から弥生時代にかけてであった。縄文時代には南関東、東山、東奥羽、西奥羽の人口規模が畿内、畿内周辺、中四国を大きく上回っていたのが、弥生時代以降は地域が逆転する。すなわち東日本中心から西日本中心へと大きく時代が移り変わる。また、縄文時代・弥生時代には人口規模全国1〜2位の地位を争った東山(信濃、甲斐、飛騨)が奈良時代以降現代まで下から2〜4位の地位にまで低下したのが印象的である。 2.大和政権の成立を支えた関西地方の躍進 弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。この時代の人口扶養力の根拠はため池灌漑であろう。なお、これら5地域のそれぞれの順位変化は、平安末期以降、別々の動きとなって連動しなくなる。 3.武士の時代のはじまりと関東の躍進 弥生時代以降、一時期低下した関東(北関東と南関東)の地位が平安時代には再度上昇。武士の時代の到来を告げる。南関東は鎌倉幕府以降事実上の首都となって最多人口集積地域の座を維持した。一方、北関東は平安前期、末期には全国1位、3位の座を占めたがそれ以後は地域を低下させた。ちょうど将門の乱(935年)の頃にはその舞台となった北関東と南関東が全国1〜2位を占めており、他地域を上回る新田開発の進展と経済力の上昇が反乱の背景となっていると考えられる。この時代の人口扶養力の根拠は荘園単位で開発が可能な中小河川水系の新田開発であろう。 4.守護在京制や織豊政権の確立による畿内への人口集中 権力を確立した将軍足利義満が南北朝の内乱期に強大化した守護権力を抑制するため、守護大名を常時在京させて将軍の手元におく守護在京制を導入した。「守護の在京は、地方を治める守護権力の当主を在京させて、京都に集住する領主たちの世界に組み入れることになった。家臣団の一部も在京し、在京活動に要する米銭が管国から送られた。京都の人口は増加し、諸国から物資も銭も集まり、室町幕府の首都である京都は空前の繁栄をみせた」(伊藤俊一「荘園」中公新書、2021年、p.208〜210)。 応仁の乱以降の戦乱で守護在京制が崩れ、京都も衰退したが、その後、大坂・堺を含む畿内を拠点とする織豊政権が確立し、再度、畿内への人口集中が加速された。 5.大河川水系の新田開発 戦国期から江戸享保改革期までは戦国大名による大河川のコントロールが可能となり日本全国で人口が急増した時期である(図録1150参照)。この時期に先立って北関東の順位が急落、またこの時期に畿内の順位が大きく低下したのは、こうした近世的な全国国土開発の波にによって同等人口規模の地域が多く輩出した反作用と見られる。実際、末尾の参考図のように畿内の人口シェアは関ヶ原合戦前後の時期を除くとそれほど大きく変化していた訳ではない。 6.北前船の時代の到来と衰退 江戸時代後半から明治時代にかけて、大阪湾〜瀬戸内海〜日本海〜北海道航路の北前船を大動脈とした経済圏が発達・成立し、明治期には北陸が人口規模2位にまで躍進した。江戸期における藩米の流通とともに、明治期にかけての瀬戸内地方の綿、砂糖、藍、菜種、塩と北海道のニシン魚肥の生産と交易を基本とする経済圏だったため、その中央に位置し北前船の船主の一大根拠地だった北陸が栄え、主要産品産地を抱える山陽や四国の人口も北陸と連動して増加した。しかし、その後、海外貿易による国内産業循環の再編(上述国内産品の輸入産品による代替)、北海道開拓、軽工業中心の関西工業地帯の発展、首都東京の拡大などにより、北陸、山陽、四国の地位が揃って低下し、畿内、北海道、北関東のシェア拡大が目立つこととなった。北前船経済については図録7810参照。 (注)W.H.マクニールは「世界史」の中で、近代以前に、日常に使用する低価格品まで市場間で取引することを可能にするような水路網(海運と河川水運)を築くことが地形上可能だったのは、ヨーロッパと中国、日本だけだったが、中国、日本では上からの統制経済によって水路網の活用が阻害され、こうした恵まれた条件を生かして経済を発展させることができたのは、ヨーロッパだけだったと言っている(「世界史」上、中公文庫、p.402〜403)。マクニールは、日本の場合、徳川幕府による外洋船の禁止をその証拠としてあげている。マクニールが北前船経済圏の発達を知っていれば、日本の場合は、ヨーロッパに近い市場経済の発展が実現していたことが認識されたかもしれない。 7.石炭・鉄鋼業から機械産業への中心シフト 炭田と鉄鋼業の躍進に伴って両産業の全国中心だった北九州の人口規模が大正9年には全国2位にまで上昇したが、その後自動車産業他の機械産業が発達し、北九州に代わって東海の人口が伸びた。北九州の地位は石炭から石油へのエネルギー革命が進んだ1970年には特に低下している。 8.三大都市圏の形成 京浜、中京、関西という3大工業地帯の発展にともなって人口規模における南関東、畿内、東海の順位が戦後の高度経済成長期以降には定着した。その後、東京一極集中により南関東のシェアがさらに拡大したがこの順位自体は変わらなかった。 最後に、参考のため、南関東と畿内の人口規模順位ではなく実際の人口シェアの推移を以下に図示した。
(2012年8月9日収録、2019年3月15日マクニール(注)、2022年2月26日・27日「4.守護在京制による畿内人口集中」の項追加)
[ 本図録と関連するコンテンツ ] |
|