英エコノミスト誌は2015年7月18日号で12日に行われたウィンブルドンの決勝戦でジョコビッチがフェデラーに勝利した後、「歴史上最高のプレーをした」と発言したのを受けて、人間の運動能力の限界について、2本の記事(テニス・陸上競走競技・野球の記事とゴルフの記事)を掲載している(The Economist July 18th 2015)。1本目の記事ではテニスでは運動能力の向上の実証が難しいとして、陸上競技の世界記録を取り上げ、一昔前の記録に対して最近の記録が如何に大きく進展しているかについてふれた後、こう言っている。「しかし、進展のペースは遅くなる傾向にある。男子100mは例外だが、多くの種目ではプラトー(高原状態)に達している。すなわち、新記録が出る頻度は少なくなり、旧記録を上回るマージンは小さくなりつつある。例えば、800m男子の世界記録は1981年までの26年間に4秒近く縮まったのに対して、同年の新記録は0.82秒の短縮に過ぎなかった。(中略)スピードの限界は不可避である。人間は飛行機や大気圏外への発射のように速くは走れない。アスリートは広く信じられているよりも早くその限界に近づきつつある可能性が高い。Mark Denny(スタンフォード大学)の計算によればほとんどの競技種目で人間の潜在的な最高限度の3%以内に達している」(同上)。

 本図録では、エコノミスト誌がグラフ・データを引用している(要約して)同氏の論文から、陸上競走競技の世界記録の時系列的な更新データの図を再掲した。論文では、個体群規模や品種改良による記録向上のポテンシャルまで射程に入れるため、競走馬(サラブレッド)や競技犬(グレイハウンド)の記録向上の回帰分析をまず行っている。そして、その後に、人間の毎年の最高記録データをプロットしたグラフ・データを掲載している(図参照)。データの分析結果については、直接、Mark Denny氏の論文の記述を以下に示すことにしよう(Mark Denny(2008)Limits to running speed in dogs, horses and humans, THE JOURNAL OF EXPERIMENTAL BIOLOGY)。

 なお、世界記録の最近の更新については、男子100走は図録3988p、男子マラソンは図録3989e参照。

「競走馬や競技犬の場合は、走るスピードの限界は特に明らかである。より早く走るようサラブレッドやグレイハウンドの品種改良が集中的に行われているにもかかわらず、また、例外的な個体が現れる可能性を増す個体群(population)が増加しているにもかかわらず、さらに、未発見のパフォーマンス向上薬物が複数使用されたにもかかわらず、こうした動物の競争速度はこの40〜60年間上昇していない。このように、競走馬や競技犬については、ランダム・サンプリングにもとづく軽い(あるいは限定された)スピードの更新があるだろうが、限界は達成されたように見える。こうした状況は人類、特に男性の場合はそう明らかではない。人口数と連動させたロジスティックモデルを歴史的なデータに当てはめると人間の男性のスペードには限界があるが、それは現在までに観察された値とほんの数パーセントしか離れていない。しかし、競走馬や競技犬、そして女性スプリンターのスピードと違って、男性のスピードはなお高原状態(プラトー、上限定常状態)には達していない。

 男性のスピードの持続的な向上の可能性を示す優れた例がジャマイカのウサイン・ボルトの100m走、200m走の最新の世界記録によって供された。ボルトはオリンピックの3日間で過去の記録を「打破した」。すなわち100m記録を9.72秒から9.69秒に縮め、200m記録を19.32秒から19.30秒に縮めたのである。ボルトはスプリンターとしては例外的に背が高かった(1.96m)ので、報道陣に歓呼をもって、身体的な「異才」、新時代のスプリンターの先駆者と評された。

 ボルトの記録はここで提出した予知に疑問を投げかける存在なのだろうか?答えはノーである。ボルトの記録は過去の記録に対して小さな超過に過ぎない。すなわち、100m走、200m走のそれぞれで0.3%、0.1%である。またボルトの記録は歴史的なデータに当てはめたロジスティック曲線からはずれていない(図のピンクのドット)。さらに、過去のスピード記録においても似たようなジャンプはあった。かくして、ボルトの記録は賞賛されるべきものであるとはいえ、ここでの予知が不正確であったり、100mや200m競技における人間の速度には限界がない、ということを何ら示しているわけではないのである。

 100mから1500mまで距離走競技について、女性のスピードは高原状態を迎えているかのようであり(図参照)、表面的にはデータのロジスティックモデルに信頼性を付与している。こうした高原状態(そしてこの信頼性付与)は、しかし、疑ってかかるべきなのかもしれない。いずれの競走においても、現行の世界記録は1980年代中葉の初めに打ち立てられており、この時期は、運動能力向上薬物が女性のトラック競技の選手たちに普及していたが、これらの薬物を検出する信頼に足るメカニズムが確立していなかったのである。もし薬物使用で1980年代のスピードが人為的に高められていて、その後の時期に薬物使用が行われなくなったとしたら、歴史的な記録における高原状態は人工物であると見なすべきだろう。しかしながら、1980年代の毎年の最高スピードを除外しても実質的にロジスティック分析の結果を変更することにはならない。つまり、こうした距離走におけるスピードの高原状態の継続は本当ということになる。こうした結論には、さらなる興味深い関連推論が成り立つ。すなわち、もし、運動能力向上薬物が女性選手によってなお使用されているとしたら、薬物の効果はそれ自体明確な高原状態に達している筈なのである。

 短距離走の記録とは対照的に女性のマラソンのスピードは近年でも向上し続けており、マラソンでは男性と同じように女性も明白な高原状態には達していないのである。この場合、しかし、現行の世界記録(2005年にポーラ・ラドクリフがつくった毎秒5.19m)は予知されている平均の絶対最高スピード(毎秒5.21m)に非常に近い。実際、現行の世界記録は人口数連動モデルから予知された最高限度を超過している(この推計の信頼区間の範囲内にあるとはいえ)。(中略)

 私の人間についての結果は、「現行の男性と女性のジェンダー・ギャップは100mからマラソンまでの距離競技において決して縮まらないだろうと」いうSparlingとその同僚、及びHoldenによって達した結論を支持している。」

 参考までに論文に掲載されていた最高スピードの予知値を下表に示した。これによれば、男子100m走は9秒48であり、現行のウサイン・ボルトの世界記録9秒58(2009年)がもう少し短縮が可能ということとなる。男子マラソンは2時間1分程度であり、現行のキメットの世界記録2時間2分57秒(2014年)ももう少し縮まる可能性がある。

最高スピード予知値
(注)原資料の表3による。ただし時間記録換算は当図録の算出
(資料)Mark Denny(2008)Limits to running speed in dogs, horses and humans, THE JOURNAL OF EXPERIMENTAL BIOLOGY
  距離 プラトー
年次
最高スピード予知値(m/秒) 同左平均の
時間記録換算 
ロジスティ
ックモデル
個体群ドリ
ヴンモデル
 平均 

100m 10.55 10.55 9秒48
200m 10.73 10.73 18秒64
400m 9.42 9.31 9.37 42秒71
800m 8.41 7.93 8.17 1分37秒
1500m 7.36 7.53 7.45 3分21秒
マラソン 5.88 5.77 5.83 2時間1分

100m 1977 9.81 9.81 10秒19
200m 1973 9.67 9.67 20秒68
400m 1974 8.54 8.54 46秒84
800m 1973 7.31 7.31 1分49秒
1500m 1978 6.55 6.55 3分49秒
マラソン 5.30 5.12 5.21 2時間15分

(2015年7月27日収録)


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