人口千人当たりの出生数及び死亡数である出生率と死亡率の明治以降の長期推移を掲げた(1960年以降の推移と自然増減率の各国比較は図録1172参照)。

 出生率は毎年の変動を除いた長期推移では明治以降、大正時代まで上昇し(ピーク1920(大正9)年)、それ以降、大きく低下してきた。

 大正時代における出生率の増加から減少への転換の契機となったのは、産児制限への動きや一般家庭への電灯の普及の影響と考えられている。

 ニューヨークで1916年に産児制限クリニックを開設したことで有名なサンガー夫人が1922年に来日し、「婦人世界」や「主婦の友」などの雑誌が夫人の主張や国内の反対論について紹介するなど産児制限への気運が高まった。特別の器具を使わない安価で確実な方法として「荻野式避妊法」が開発されたのもこの頃である(速水融・小嶋美代子「大正デモグラフィ 歴史人口学でみた狭間の時代」文春新書、2004年、p.223〜224)。

 「明治43年に194.9万灯に過ぎなかった日本全国の電灯取付け数は、大正14年には2732.1万灯と約14倍に増えている。このなかには、家庭用以外のものも含まれているにしても、15年間にこれだけの増加をみせたのは、この時期だけである。電灯は庶民の「夜の生活」を変えた、といっていいだろう。電灯のもとで、人々は雑誌や書籍を読むこともできたし、夜なべ仕事も容易になった。大正期に始まる都市の出生率の低下は、電灯の普及と少なくとも時期的には一致している。都市では夜の娯楽が増え、農村に比べてそもそも低かった出生率は、さらに低くなった」(同上書p.74〜76からの引用者による切り貼り)。

 1906(明治39)年、1966(昭和41)年の出生率の一時的低下は丙午(ひのえうま)の年に当たり、この年生まれの女性は気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮めるという迷信に影響されて出生数が少なかったためである(注)

(注)ひのえうま(丙午)の迷信が社会問題になったのは大正時代らしい。作家の川端康成は「丙午の娘讃、他」(1925年、全集第26巻p.79〜81)というエッセイでこう言っている。「そもそも丙午の娘が世を果敢なんで自殺し初めたのは、それが新聞の記事として出初めたのは、大正十年のことである」。そして、「丙午の娘には勝ち気で、利口で、敏感な女が不思議に多い」理由として、異常なほど国民の間で愛国心が高揚した日露戦争時に生まれたという要因を独自説として掲げている。「明治三十九年に生れた娘の大半は三十八年から九年にかけて母の胎内にいた。そこで彼女はどんな胎教を受けたか。大空までが戦いと勝利との色に染まった、国家的興奮である。銃後の人である母や家庭だけの感情を想像しても産児の特質は明らかである」。また、「凱旋兵士と彼らを本国に待侘びた女との感激と歓喜との結合によって宿ったのが、丙午の娘であることを思えば、一種凄惨の気に打たれる程だ。しかも周囲には国家的激情と混乱とがある。それらのことは読者よろしく空想し給え」。

 1939年の落ち込みは日中戦争の動員によるものである。

 終戦前後の出生率低下を埋め合わせるように1947〜49年には第1次ベビーブームがおこり、さらにその子どもの世代が生まれる時期に第2次ベビーブームが起こった。

 こうした出生率の短期増減は各歳別の人口ピラミッドにも痕跡を残している(図録1164参照)。

 死亡率は短期的な増減を除いて見ると、明治以降、ある程度高い水準が続いていたが、昭和に入って低下傾向をたどり、戦後の高度成長期まで大きな低下傾向が続いた。それ以降は横ばい傾向となったが、この20年は高齢化の影響で死亡率も傾向的に上昇してきている。

 大正末期から死亡率が低下傾向を辿ることになったのは、@公衆衛生や医療設備の充実による都市部の死亡率の低下(都市蟻地獄説があてはまり農村部より都市部の方が低かった死亡率が大正期に逆転)、A病院出産の増加、粉ミルクや練乳による哺育の容易化などによる乳児死亡率の低下(戦前日本は工業国の中でも最も高い乳児死亡率の国だった)によるものとされる(速水融・小嶋美代子「大正デモグラフィ 歴史人口学でみた狭間の時代」文春新書、2004年、p.220〜221)。

 近年の出生率の低下と死亡率の上昇の結果、明治以降はじめて自然増減率が2005年にマイナスに転じ、また2007年からは毎年マイナスが続いている。合計特殊出生率は2005年を底にゆるやかな上昇に転じているが(図録1550)、出生数や出生率は低下傾向を続けている。

 明治から大正にかけて、以下のように流行病、疫病により、大きく死亡率が上昇する年が繰り返されたが、戦後に入ると、衛生環境の改善や疫病対策の進歩により毎年の死亡率の変動は大きく減じてきた。
  • 1879年、86年(コレラの流行)
  • 1918年、20年(1918〜19年に世界的に流行したインフルエンザ「スペインかぜ」、図録2080参照)
  • 1957年(インフルエンザ「アジアかぜ」)
  • 2022年(新型コロナ3年目)
 新型コロナの流行がはじまった2020年の死亡率は11.1人と前年よりむしろ下がったのに、2021年から22年に11.7から12.9人へと死亡率がはねあがった。これはコロナで死亡した人が多かったというより、コロナの患者数が急増して病床がひっ迫し、さまざまな病気の患者の診療に支障が生じたためと見られる。この点は、心疾患や脳血管疾患、腎不全など多くの死因の死亡率が2022年に上昇したことからも察せられる(図録2080参照)。

 1886年、すなわち「明治19年の夏はひどく暑く、晴天がつづき、コレラが流行し(東京市内だけでも死者10万人という)、その上、どんな根拠からか「ガスを含有している飲料を用いると、コレラ菌に犯されない」という記事を出した新聞があったのでラムネが飛ぶように売れたという」(大塚滋「清涼飲料」(篠田統ら「食物誌」中公新書、p.65〜66)。

 2022年には私が愛用していた「龍角散ののどすっきり飴」の売り切れが長く続いた。これは龍角散やこの飴がコロナ予防に効果があるといるうわさが中国で広まり、来日客が買い占めたからと言われる。いつも時代も感染症の流行には不安心理にもとづいて予想外の集団行動がひきおこられるものらしい。

 この他、戦前には、戦争や大震災による影響も大きかった。

 近代の人口転換理論では、多産多死から多産少死を経て、少産少死に至る過程で、多産少死の時期に人口増加率がピークとなるとされる(図録1561)。

 掲げられた出生率と死亡率の推移では、近代の人口成長がはじまるとされる明治期には、死亡率が低下というより、出生率が上昇する中で人口増加率が増加しており、必ずしも、この人口転換理論の古典的図式通りとはなっていない。

(2013年4月30日収録、6月6日更新、2014年6月4日更新、2015年4月14日2013年確報値、6月5日更新、2016年5月23日更新、7月27日大正デモグラフィ引用、2017年6月9日更新、2018年6月2日更新、2019年6月26日更新、2020年6月10日更新、2021年6月4日更新、11月20日丙午迷信日露戦争起因説、2023年6月2日更新、コレラとラムネ) 


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