過去の物故者:2023年(図録j042) 2022年(図録j037) |
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たまたま個人的に関心を引いた物故者について、追悼コメント、あるいは追悼記事の引用を掲げてみよう。 世界のオザワを実感することができたのは、若い頃、うとうとしながら聞いたラジオであり、私がクラッシックで唯一大好きなバルトーク曲の演奏指揮についてのピエール・ブーレーズとの競演だった。ブーレーズはバルトークをオザワにはまねのできない西洋音楽本流の教養が詰まったきめ細やかな演奏を繰り広げた。これに対して、オザワは無理やり組み伏せるがごとき異邦人的な才気あふれる演奏であり、シェーンベルクやミヨーならブーレーズには敵わないがバルトークだとむしろオザワの方がディーセントかもしれないと思わせるところがあった。ともかく引けを取っていないと感じた。個人的な回想である。 現場主義でスズキを日本の代表的自動車メーカーに育てたカリスマ経営者だった鈴木修同社相談役(上に写真)が12月25日、94歳で亡くなった。評伝が「軽は弱者の足」と題され28日の東京新聞に掲載されたが、矢野修平(中日新聞前東海本社経済部デスク)執筆のこの記事は、インド進出の功績を大きく取り上げた大手紙の評伝とは一味違う追悼記事らしいものだった。たぶん長い取材の末だからだろう。以下に引用する。 「こん畜生。それが僕のバックボーンだ」。会社の危機に直面するたび、持ち前の負けん気で幾度も乗り越えた。上の図にはないが、「終生一記者」を任じていた最後の大物ジャーナリスト渡辺恒雄が12月19日に98歳で亡くなった。部数日本一にのしあげた読売新聞の影響力で政局まで左右し、「国家監視から国家と一体化への堕落」と批判される一方で、「何百万人も殺して、日本中を廃虚にした連中の責任を問わなくて、いい政治ができるわけない」と言って戦後60年を機に大型企画「検証・戦争責任」を主導するなど反骨精神も発揮した。こうした国家権力を何とも思っていない不遜とも見える態度こそ福地桜痴以来のジャーナリズムの本領だと考えられる。 北海道出身の第52代横綱北の富士(図録3989p)が本年11月12日82歳で亡くなった。以下は東京新聞の本編とは別に「筆洗」コラム(11月22日)に掲載された追悼記事であるが、よくできた文章だと思うので引用する。 千代の富士の横綱昇進は1981年の名古屋場所後。宿舎で吉報を伝えられた後、当時の九重親方がまず発したのは祝福の言葉ではなかった「横綱の座を汚さないように太く、短くいこう。悪ければ、いつでも引退の覚悟をしておくように」。小柄で綱を張れるのも2、3年かもしれない。せっかく栄光の座を手に入れたのだから、せめて潔い散り際にしてやりたいと願ったという。きょとんとした表情をした後に理解してくれた弟子は約10年、横綱でいた。当時のその親方、北の富士勝昭さんが亡くなった。厳しくも温かいテレビ解説はもう聞けない。ネオン街を愛し「夜の帝王」と呼ばれた。タニマチが力士におごる角界だが、若いころ師匠に「酒は自分の金で飲め。一級酒でなく特級酒を」と言われた。番付をあげ自ら稼ぎ豪快に遊べ。横綱にまでなり、銀座で自腹で豪遊したそうだから立派である。自身の断髪式後、着たかったタキシード姿で土俵に上がった。自由奔放。ブランドもののセカンドバッグを持ち場所入りする力士には「おしゃれは流行の追求ではない」と不満だった。大事にした粋や美学。地位を極めた弟子にまず引き際を教えたのも分かる。自著で春日野元理事長(元横綱栃錦)の「君たちは相撲取りでなく力士。力士とは力のさむらいと書く」という言葉に触れていた。洒脱なさむらいの旅立ちを送る。詩人谷川俊太郎は2024年11月13日に老衰のため亡くなっていたことが分かった。92歳だった。朝日新聞に11月17日に掲載された「感謝」と題された最後の詩は次のようなものだった。辞世の句と言えよう。 目が覚める (2024年12月31日収録、1月1日鈴木修評伝、世界のオザワ)
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