父母が子どもに望む性格特性としては、日本と韓国と米国でそれぞれ大きく異なっている。各国の1〜5位は、
となっている。選択肢に「思いやり」があれば、日本では他国と異なって、まず、これを最重要視するのは、図録8068の結果と同じであり、かなりロバストな事実といえよう。 ここで興味深いのは、「思いやり」と類似した「協調性」は日本でそれほど多くない点である。日本人が協調性を重視するように見えるのは、それ自体を目的としているからではなく、相手や皆を思いやる結果、協調性ある態度となってあらわれるのだといえよう。極力傷つけ合わないようにして暮らしていくのが、狭い島国でイヤでも意見の違う他人と一緒に生活しなければならない日本人が身につけた生活の知恵だと思われる。アジアの価値観の特徴とされる集団主義は、機能重視の日本と規範重視のそれ以外とで内容がかなり異なっている点については図録8062参照。 同じことは礼儀の尊重によっても、ある程度、実現する。儒教の伝統をもつ日本や韓国では米国と異なり、これを重視する比率は高い。特に儒教的徳目の重視度が国民性となっている韓国では第1位の項目となっている点が印象的である。韓国の場合、この礼儀は相手の気持ちとは余り関係ないところが日本と異なっている。韓国では「思いやり」への回答率はかなり低く、米国にも及ばないのである。気持ち的なこととは余り関係なく礼儀を通すことが重要なのである。酒を酌み交わすとき上下関係があれば下の者は相手の正面を見ずに横を向いて杯を干す習慣が韓国にあるが、これは礼儀であって思いやりではないのである。相撲や武道における礼の重視とも重なるが、憎しみあっているもの同士でもお礼をすれば少しは社会対立を緩和できると考えたのだろうか。なお、欧米でも「行儀よさ」(good manners)という言い方ならば重視度は高い(図録9463コラム参照)。 論語の学而第一では礼についてふれた最初の条で、礼と和の関係についてふれている。ここで礼は「礼儀正しさ」、和は「思いやり」と同じことと見なすことが可能であろう。 有子曰く、礼の和を用(も)って貴しと為すは、先王の道も斯れを美と為す。小大之に由れば、行われざる所有り。和を知って和すれども、礼を以って之を節せざれば、亦た行う可からざる也 礼は和につながるので昔の偉い王もその点で重視した。何でも和が重要と見なすとうまく行かないところも出てくる。その重要性を考えて和を重視するとしても礼で規律を保たなければうまく行かないのだ。こんな意味だと考えられる(吉川幸次郎「論語〈上〉―中国古典選 (朝日選書)」、p.33)。私は「思いやり」のない「礼儀正しさ」は内容空虚な虚礼となりがちなのではと日本人の立場を正当化する考えをかねがねもっていたが、論語では、むしろ「礼儀正しさ」のない「思いやり」では思いやりの甲斐がないと逆の戒め方をしていたのである。アンケートの結果における日本人と韓国人の考え方の差はどちらの戒め方を重視するかによる差と言えよう。日本人は聖徳太子の十七条憲法の最初の第一条が論語のこの条を受けた「和をもって尊しとなす」であった影響もあり、和を最重視するようになったが、韓国人は儒教重視が尋常ではないので論語のこの条の前半のそもそも論ではなく後半の結論の方に従っているのであろう。 米国の場合は、公正さや正義が日韓と比較して3倍もの回答率となっており、これらを子どもの頃から身につけさせるべきことと親は考えているようである。正義が相対的なものと考えるなら人それぞれが自分の正義を主張して人々の対立は止まないのが原理だから、やはり神から与えられた唯一の正義があり、それがあらわれれば皆がそれに従うという理想状態となるという前提があるのであろう。確かにスポーツのルールのようなものであれば、違反は違反として競技者は納得しあうことが出来るのかもしれないが、社会のルールはそう単純なものではない。そう考えて、アジアでは正義を振りかざすことは余り道徳的に正しいとは考えられていないのである。 (2015年6月29日収録、8月16日論語引用追加)
[ 本図録と関連するコンテンツ ] |
|