1.子どもに教えたい徳目から探る国民性 同様の調査結果は、東アジア諸国について図録8068、日韓米比較について図録9464、日米独蘭伊比較については図録9464aに掲げているの参照されたい。また、参考のために、ここでの対象国になっていないアイルランド、デンマーク、ギリシャ、イスラエル、バングラデシュなど19カ国を含む2000年期の調査結果を図録9463fに示しておいた。 表には世界価値観調査(及び一部欧州価値観調査)の結果から各国の国民が重視する徳目(資質、qualities)として何を多く挙げたのかの上位3徳目を順番に並べた。 寛容性と責任感を1位、2位に掲げた国が大勢を占めるのは欧州・オセアニアと米州(北米・中南米)の国民であり、その他の地域では上位2位としてこの2つの組み合わせをあげた国民は台湾、レバノンを除いて存在しない。表では、寛容性か責任感が1位で、他方が2位の国を並べ、他方が2位ではなく3位となっている場合など類似の国を付加した。この地域で、寛容性か責任感がトップでない国は、1位が自主性のスロベニアと節約心のアルゼンチンのみである。 アルゼンチンの1位が節約心であるのは、2001年の債務不履行(デフォルト)による経済的困難がよほど厳しいものであったからだと思われる。2位までに節約心が来ている国はアルゼンチンのほか、韓国が挙げられるが、韓国も1997年にIMF危機とも呼ばれるアジア通貨危機によって非常に大きい経済的な困苦を経験している。実際、両国とも2000年期の調査結果では「節約心」は上位3位までに登場していない(図録9463f)。 自主性を重んじる国民が多いのもこの地域の特徴である。「自分の言葉・行動に責任をもちなさい」という責任感の教えや「我が道を行きなさい」という自主性の教えの影響下では、自然と自己主張が激しくなり、意見の対立から子供同士のトラブルがふえるので、「お互い、相手の主張を認め、尊重しあいなさい」という寛容の精神の教えでバランスを取って社会が分裂しないようにしているのであろう(注)。 (注)こうした気風についてはドイツの事例を解説している川口マーン恵美氏の解説が参考になる。 「ドイツの青少年といえば、生意気で自分をいっぱしの大人だと思っている。原則として、教師がプライベートな領域に干渉することもない。学校でも、私立など特別な場合を除いては、常に法律が校則に優先する。つまり、ピアスをしようが、高級な腕時計をしていようが、化粧をしようが、セクシーな服を着ようが、一切お咎めなしだ。 飲酒解禁は18歳だが、アルコール度の低いビールなどは16歳から許可されているので、修学旅行で夜の自由時間に生徒が飲み屋でビールを飲んでいても、教師は一緒に飲むことはあっても、注意はしない。煙草も、学校内は禁煙でも、休憩時間に校門から一歩外へ出て吸えば、誰も文句をいわない。 18歳になった生徒が車で乗り付けてもOKだ。同棲している生徒がカップルでマイカー通学してくることも珍しくない。学校では、避妊の仕方やエイズの怖さは懇切丁寧に教えるが、16歳を過ぎた子どもにセックスをしてはいけないとはいわない。 −−なぜか。それは、プライベートに属することだからである。ドイツの学校には日本の学校にある生活指導という言葉はないのだ。 その代わり、生徒は自分の行動に責任をもたなければいけない。生徒が起こした不祥事は、学校の責任でも、教師の責任でもない。18歳を過ぎれば成人となるので、親が公式に責められることもない。責任は本人が取らなければならない。(中略) 親が子供の行動に、直接責任を持てるのは、せいぜい18歳までだ。実際には14歳ぐらいでほぼ不可能になる。30歳を過ぎた息子が麻薬で捕まるのは、親のせいではない。それは100パーセント息子の罪だ。 だから親の任務は、せめて子供を14歳ぐらいまでに、自分の頭で考え、行動に責任を持てるようにすることなのだが、これが残念ながらいつもうまくいくとは限らない」(「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」講談社+α新書、2013年、p.116〜118)。 校内乱射事件を題材にしたNETFLIXのスウェーデンのドラマ「クイックサンド」(2019年)を見ていて、まだ社会に出ておらず、親のカネに依存しており、若者どうしのパーティ騒ぎ(不思議なほど参加が不可欠と考えらえている)などに巻き込まれて酒やドラッグにもおぼれがちな高校生が日本人の目からすると余りに大人扱いされており、当人もそれが当然と無理な自負心にとらえられ、かえってスポイルされていく状況に違和感を感じたが、こうした気風ではある意味仕方がないなとも感じられる。 欧州・オセアニアと米州の違いは、欧州・オセアニアでは全く登場しない従順さが米州の場合は2〜3位に登場するケースが多いことである。なお、従順さは、欧州と同様にイスラム圏やアジアでも全くといって良いほど登場しないが、サハラ以南アフリカでは多くの国で2〜3位に現れている。 次に勤勉さが1位となっている3グループが識別できる。 勤勉さが1位で2位が責任感というグループとしてロシアと旧ソ連諸国が目立っている。地域は異なるがトルコや東欧のルーマニア、ブルガリアも同じ特徴を共有するのでこのグループに入れた。 2018年3月のロシア大統領戦で圧勝し、通算4選を果たしたプーチン氏は、選挙前に流されたドキュメンタリー番組で「彼らはゲームができないし、強くない」と欧米諸国を見下した。また、アメリカ・ファーストのトランプ米国大統領が国民の分断を助長し、難民問題で揺れる欧州で排外主義のポピュリズムが吹き荒れるのにふれて、「欧米が信じるリベラリズムや多文化主義の理想は「失敗に終わった」と断じたそうである」(東京新聞2018.3.20)。また、プーチン氏は、かつてインタビューの中で自分の身を守るために各種の格闘技を習っていた少年時代に得た3つの教訓として「1.力の強い者だけが勝ち残る。2.何が何でも、勝とうという気持ちが大切。3.最後までとことん闘わねばならない」を披露したという(同「筆洗」)。 こうした発言からうかがわれるプーチン氏の価値観には、このグループで重視される徳目が反映しているとも考えられる。自分が頑張るのがまず第1であり、「寛容性」も重要とはいえ3番目になのである。 中国、タイ、フィリピン、ベトナムといったアジアの一部も勤勉さが1位で中国を除くと責任感が2位である点でロシア・旧ソ連と類似している。シンガポール、韓国も勤勉さと責任感が3位までに登場している点では同じグループに入るだろう。 勤勉さが1位であるがほとんどで責任感が3位までに出てこないグループとしてサハラ以南アフリカが識別できる。このグループでは「従順さ」を2位か3位に挙げている場合が多い点でも目立っている。 信仰心が1位である点で世界の中でも目立っているグループなのがイスラム圏諸国である。 なお、イスラム圏の中では隣接するリビアとチュニジア、及びイランが信仰心が2位と少し宗教から少し距離を置き、バーレーンに至っては信仰心が3位までに登場しないのが目立っている。さらにトルコに至っては、信仰心が3位までに登場しないばかりでなく、むしろ、ロシア・旧ソ連圏のパターンに近いのでそちらの欄に整理したほどである。 アジアの諸国は多様である。中国、タイ、フィリピン、ベトナムは勤勉さがトップである。中国を除く東アジアの儒教圏諸国では責任感がトップとなる傾向があるが、東南アジアのシンガポールでは自主性、マレーシアでは寛容性が1位となっている。またパキスタンとインドネシアは地域的にはアジアの一部であるが、信仰心を1位とするイスラム圏のパターンとなっているのでそちらへ区分けした。このようにアジアでは地域としての支配的なパターンがないことじたいが特徴である。 日本は決断力・忍耐力がインドとともに2位となっている点が他国民にない特徴である(他で3位までに決断力・忍耐力が入っているのはチリ、ベトナム、ブルガリアの3位のみ)。日本とインドで3位までの徳目が全部で共通なのは偶然だろうか。 アジアの中でも、台湾やマレーシアは、欧州・オセアニア/米州グループと同様の精神態度となっており、欧米化が進んでいると解することもできよう。 以上のように、子どもに教えたい徳目として何を重んじるかという調査を見ると、国民ごとの文化のちがいによって、ほぼグループ化できる点が興味深い。 なお、アジアバロメーター調査におけるアジア7カ国の同様の調査の結果を見ると、ここで登場しない徳目の選択項目が1位となっている(図録8068)。すなわち、シンガポールでは「正直」、韓国では「誠実」、日本では「思いやり」が最も重視されている。また、日本は7カ国のうちで「忍耐」の比率が最も高い点で目立っている。これから類推すると世界価値観調査における日本人の特徴だった「決断力・忍耐力」重視は「忍耐」という側面の重視だったということができる。 2.解釈 子どもに教えたい徳目(精神態度)に関する調査結果ということから、以上の結果には、上述のように、子がはやく社会に適用できることを願う親の考えが反映しているととらえることが可能だろう。
そうすると、私の考えでは、この点をめぐる各国民グループの文化のちがいは次のように解釈できるのではないだろうか。 信仰心を抱いているもの同士は神の命ずるまま仲良く生活できるだろう。信仰心を1位に掲げる国民はそうした考え方だろう。マホメットの時代からこうした側面は重視されていた。 マホメットは、メッカからメジナに移ってから、信仰を通じて、お互いが結ばれる関係を重視するようになったという(井筒俊彦「イスラーム文化」岩波文庫、p.108)。 「汝らにたいする神の恩寵を心に銘じておくがよい。汝らが以前に互いに敵であった頃、神は汝らの心を固く結び合わせて下さった。おのお情けのおかげで、互いに兄弟になることができたのではないか。(中略)汝らみんなが打って一団となり、人々を善に誘い、義を勧め、悪を抑止することに努めるのだ。そうしてはじめて栄達の道を行くことになろう」(コーラン、3章、98-100節、同上)。 ただし、この考え方は、一方で、別の信仰心の者たちや信仰心をもたない者たちとは非妥協的な対立にむすびつく可能性も高くなる。 宗教戦争でこの点を学んだヨーロッパ文明のように信仰心に代わって寛容が支配的となれば、お互い正しいと思って行動しているもの同士がいわば相手は間違っているけれど認めるというような精神性で相互に仲良くできるだろう。寛容は上から目線の者同士の妥協の精神ともいえよう。多数決原理の民主主義の存在意義もここにある。 西洋でも宗教を社会生活の基本としていた時代には、イスラムと同様、キリスト教信仰を協調性の要としていた点を、西欧文化の洗礼を受ける前の日本の文化人である旧佐賀藩士久米邦武は、明治維新直後の岩倉使節団の筆記役として、以下のように述べている。 「欧米の各地には、至る所で、血だらけの刑死者が十字架に懸けられている姿を描いたものが会堂の壁や隅に掲げられており、まるで墓場を通り、刑場に泊まっているような思いをさせられる。これが奇怪でないとしたら何が奇怪であるか。ところが、西洋人は逆に東洋にこの像のないことを奇怪として物の分かった人までもこれを掲げるよう勧めてやまないのである。 一体、これはどういうことなのかというと、西洋人が心から神を敬う気持ちによって行いを正し、奮励努力して互いに協調するのはこの信仰に基づいているからである。それ故、宗教というものは、その形態や教義をあれこれ論議しても始まらないのであり、それがどう実践されているかを確かめることだ」。 日本の儒教や仏教は「教義そのものの善し悪しはさておいて人々の品行にどのような作用をおよぼしているかをみてみるなら世界で最下等に位置づけされると言っても間違いなかろう。キリスト教の教えには馬鹿げたものも多く、これらに論理をもって対抗するなら明敏の士ならずともキリスト教徒を屈服させることは難しくない。ただし、その教えを実行する篤信さという点では我々は恥じ入る他ない」(「現代語縮訳特命全権大使米欧回覧実記」角川文庫、p.106〜108)。 東アジアでは、個々人が自分の主張を正しいと思い、真実をぶつけ合って行動することより、相互に礼儀を尽くす方がそもそも効果が高いとの立場に立つので寛容精神がなくても喧嘩にならない。東洋的競技の典型である相撲では勝利しても何事もなかったかのようにしていなくてはならず、ガッツポーズは男らしくないのである。日本人に至っては真実を見ない振りして行動することでトラブルを避ける方式が大得意となっている。日本では自分を正当化する主張をしたいときにも黙って忍耐する精神が重要となっているのである。忍耐は西欧的価値観からは敵への屈服や圧政者への忍従と見られがちであるが、実は、望ましい状況を脱落者を出さずに粘り強く追い求める精神なのである。 内向きの対立回避法である「信仰心」だけでなく、上から目線どうしの対立回避法である「寛容」も、最近のイスラム・欧米・ロシアにおける「文明の対立」を見ていると、限界があらわになっているようである。そうであるなら、日本人がお得意の「礼」や「忍耐」の出番もあるのではと私は感じる。もっと理想を言えば「仁」ということになろうが、古代の東アジアで誕生したこうした東洋精神をもっともよく保っているのは海を隔てていたために大陸の騒乱にも巻き込まれることの少なかった日本においてだろう(図録8070)。 日本人のこうした独自な国民性は、すでに聖徳太子の十七条憲法にうかがうことが可能である。第十条はこう述べている。 「こころのいかり(忿)を絶ち、おもてのいかり(瞋)を棄てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあれず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、詎かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶の端なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋るといえども、かえってわが失を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙え」(決定版中村元選集別巻6「聖徳太子」p.181〜182)。 以上のような考えを、舌足らずではあったが、私は2014年秋に開催された国際シンポジウムで披露した。英文であるが、このシンポジウムの記録を参照されたい。 私の発言は、2020年の日本でのオリンピック開催を望み、皆が他に逃れられない狭い島国だから発達した日本人のこうした独特な国民性が、今や、情報通信や交通が発達して地球全体が一個の島国になりつつある現代においては、世界に貢献する可能性があることを自覚すべきだという趣旨だった。その後、こうした考えには中村元という先達があることを知った。 「かつては広かった世界は近代機械文明の発展の結果として、いまは狭い隣組に転化しつつある。(中略)こうした狭い世界になると、そこでは隣近所の安全な生活を無視するような横暴は許されない。原子爆弾や水素爆弾の実験がいかなる国でなされようとも、人々から嫌悪され避難されるのは、そのためである。そこでは、狭い島国に養われた「和」の倫理がいまや世界的規模において要請されるのである。日本人の生活の知恵からにじみ出たこの倫理は、今後の世界において大きな意味をもつと考えられる。 狭い世界においては、他人に対する思いやりが必要である。(中略)日本人は概して礼儀をこころえ、謙譲の徳をそなえているといって称賛される。そう言われると、いささかくすぐったい感じもするが、この美徳は、単に日本人だけの守るべきものではなくて、実は、いわば一つの大きな島国となるべき運命にある世界において、今後ますます尊重されるべきであり、教養ある日本人が世界に範を示しうるものである。その点では、われわれはむしろ祖先に感謝すべきであろう」(決定版中村元選集別巻5「東西文化の交流 」p.286〜287)。 私が知る限り、世界価値観調査のこの設問の結果を引用して自説を展開している論者としては、社会学者の見田宗介氏が目立っている。見田氏は、キリスト教や仏教などを生んだ「軸」の時代に次ぐ第2の転換期である「現代社会」において、青年層を中心に無限幻想から離脱する精神が見られることに将来への希望の光を見出している。そして、2018年発刊の「現代社会はどこに向かうか」(岩波新書)において、独自集計した以下のデータを掲げ、寛容性(「寛容と他者の尊重」)が先進産業諸国で重視されるようになった点をそのひとつのあらわれだとしている。 「「寛容と他者の尊重」ということは、「成長と開発」に代わって「共存と共生」が基調となる第V局面(ロジスティック曲線であらわせる歴史の最後の段階−引用者)の基本的価値であると考えられる」。ヨーロッパでは「移民問題、宗教問題、差別と格差、等、異質な他者たちの間の共存の困難の経験の切実があると考えられる。憎悪の連鎖と増幅等すぐに来るテロリズムの顕在化を胚胎する空気に対する鋭敏な予感さえ読み取ることができると思う。同時にそこには、青年たちが、この社会のこの局面の未解決の矛盾に対して、正面から真摯に取り組み、積極的に乗り越えていこうとしていることも読むことができる」(p.67〜68)。 私の解釈では、「寛容性」は自分が神になりかわって他者を許すという感覚であり、それで足れりとしているからテロリズムから基本的に逃れられないのだと思う。大江健三郎も寛容を重要視していたことを思い出すが、欧米精神の落とし子として見田氏にも共通する価値観があるように感じる。 表で取り上げたのは82カ国である。表の順番どおりに、国名を挙げておくと、フランス、ベルギー、ポーランド、スウェーデン、スイス、オーストラリア、ニュージーランド、英国、アイスランド、ノルウェー、オランダ、フィンランド、キプロス、スペイン、アンドラ、レバノン、イタリア、ドイツ、ハンガリー、スロベニア、米国、カナダ、チリ、ウルグアイ、コロンビア、メキシコ、トリニダードトバゴ、グアテマラ、ブラジル、エクアドル、ペルー、アルゼンチン、中国、タイ、フィリピン、ベトナム、シンガポール、韓国、香港、台湾、日本、インド、マレーシア、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、グルジア、アルメニア、カザフスタン、ルーマニア、トルコ、セルビア・モンテネグロ、キルギス、ブルガリア、ウズベキスタン、アゼルバイジャン、エストニア、マリ、ジンバブエ、ブルキナファソ、ガーナ、ザンビア、ナイジェリア、南アフリカ、ルワンダ、エチオピア、イラク、パレスチナ、ヨルダン、クウェート、カタール、イエメン、アルジェリア、エジプト、モロッコ、パキスタン、インドネシア、リビア、チュニジア、イラン、バーレーンである。
(2015年3月6日収録、6月27・28日世界価値観結果公表国の増加にあわせ国数を58カ国から66カ国に拡大し、コメントも改訂、6月28日2005年期の国を加えることによって国数を82カ国に拡大、これと平行してこれまで欧州価値観調査データを使用していた国の多くは2005期データに変更、6月29日コメント補訂、6月30日2000年期結果へのリンク、コメント補訂、2016年3月15日聖徳太子・中村元引用、8月17日英国の位置を変更、2018年3月20日プーチン露大統領の発言、4月5日米欧回覧実記引用、7月29日見田宗介氏引用、2021年9月22日川口マーン恵美氏引用)
[ 本図録と関連するコンテンツ ] |
|