イラン国外でイランの代理勢力となる民兵組織への支援や諜報活動などを任務としていたイラン革命防衛隊のコッズ部隊を率いていたソレイマニ司令官が、米国トランプ大統領の指示で、テロ行為を計画しているとして、2020年1月3日、イラクの首都バグダッドにおいて米軍の無人攻撃機により殺害された。イランの報復には米国も報復すると宣言され、両国間の戦争勃発が懸念されたが、抑制がきいていたともみえるイランの報復に米国は反応せず、危機は回避された。そのさ中、ウクライナの民間機がイランの革命防衛隊の誤射で撃墜され、それを非難するイラン民衆の反政府デモも起こっている。宗教国家として一枚岩と思われている割には国内対立も激しそうだ。一体、イランとはどんな国なのかという疑問が生じている。

 国々の状況を知るためには、まず、人口ピラミッドを描いてみるのが近道である。高齢化、少子化等の進み具合、あるいは過去の戦争や出産ブームなどの名残りが年齢別の人口構成や男女比に残されているからである。ここではイランの人口ピラミッドを掲げた。参照のためイランと同様イスラム国だが、かなり以前からだんだんと近代化が進展してきているトルコの人口ピラミッドも付した(トルコの近代化については図録4570のコラム参照)。

 イランの人口ピラミッドは多産多死の「富士山型」から少子化社会の「つぼ型」へと一気に移行している点が特徴である。

 下に一般的な人口下に一般的な人口ピラミッドの推移の図を掲げたので参照されたい。


 図に示したように、多産多死の時代には「富士山型」の人口ピラミッドが見られた。戦前の日本や少し前までのインドなどがこの形だった。その後、衛生状態の改善で死亡率が低下して上の半分が膨らみ、次に、所得の上昇に伴った出生率の低下で下の半分が縮むことが多くなり、いわゆる少産少死時代の「つりがね型」に移行する。しかし、現在の日本がそうあるように少子化が人口置換水準以下にまで進行するとさらに子どもの年齢層がしぼんで「つぼ型」に変化するのである。

 イランは2015年の20代後半〜30代前半(現在は30代)が生まれた1985年ごろまでは多産多死の状況だったのに対し、その後、「つぼ型」の移行期を経ずに、一気に、「つりがね型」の形状へと変化しつつあると考えられるのである。トルコは普通に「富士山型」から「つぼ型」へ移行している。また、インドも「富士山型」から「つぼ型」へ移行しつつあるもう1つの例である(図録8250参照)。

 イランの異例さを理解しやすくするため、以下に、イランの出生率と平均寿命の長期推移を図示した。


 1978年のイラン革命後に一時期出生率が上昇したのち、1985〜2000年の15年間に出生率が6以上から2まで三分の一になるという驚異的な低下の時期を経ていることが分かる。一方、平均寿命はこの間に大きく伸びている(女性の平均寿命の動きがそれを示している。男性の方はイランイラク戦争などの影響で死亡率が上昇したため平均寿命は一時期大きく低下)。すなわち、多産多死の国から少産少死の国へと一気に状況が変化したのである。トルコのなだらかな出生率の低下とは対照的である。

 この結果、20代後半〜30代前半が、前後の世代から隔絶したイラン版の「団塊の世代」となっている。

 イランの目覚ましい出生率低下の動きについては、レスター・ブラウン氏が次のように経過を記述している(参照資料)。

「1979年、イランの最高指導者になったアヤトラ・ホメイニ師は、すでに定着していた家族計画プログラムを直ちに撤廃、その代わりに大家族を提唱した。ホメイニ師の呼びかけに呼応して出生率は上昇、1980年代初めには、イランの年間人口増加率は、生物学的な限界に近い4.2%というピークにまで達した。こうした極端な増加が、経済や環境にとって負担になり始めると、イランの指導者たちは、人口の過密や環境の劣化、失業がイランの将来を揺るがしつつあることに気付いたのだ。

 1989年、イラン政府は方針を180度転換し、家族計画プログラムを復活させた。1993年5月には、国家家族計画法が可決され、教育、文化、保健などいくつかの省庁が資源を動員して少子化を推進。イラン国営放送には、人口問題や家族計画サービスの利用に対する人々の関心を高める、という責務が与えられた。また、農村部に暮らす人々に保健サービスや家族計画サービスを提供するため、およそ1万5,000カ所の「地域保健センター」や診療所が設置された。

 宗教指導者らも、少子化推進運動に直接かかわった。イラン政府はあらゆる避妊手段を導入したが、その中には、イスラム諸国では初となる男性の不妊手術という選択肢も含まれていた。ピル(経口避妊薬)や不妊手術などの避妊手段をはじめ、あらゆる産児制限手段が無料で提供されたのだ。実際にイランは先駆者となり、カップルに対して、結婚許可証を受け取る前に現代的な避妊手段の講習を受けることを義務付ける唯一の国となった」。

 つまり、イランの少子化は、日本や欧米先進国のようにますます高くなる教育費という環境の下で自発的に選択されたものというより、中国と同様に政策的な誘導の側面が強かったのである。多産多死の時代に生まれた宗教は基本的に出産奨励の思想を内包している。ホメイニ師も例外ではなかった訳である。何故、イランでは、宗教指導者まで含めて一気にこの考え方を180度転換できたのかは「謎」である。脱宗教の中国では、ある意味、産児制限は当然の帰結だったとも理解できるが、宗教国イランで何故そうなったのかが理解しにくいのである。

 この「謎」に対して、イランがシーア派だからという点から説明を試みた記事をプレジデント・オンラインに掲載しているので参照されたい(ここ)。近代化の影響により出生率が徐々に低下してきているトルコと対照的な変動の激しい推移となっている点に注目したい。

 この点については、日本の明治維新と同様に、伝統的な宗教イデオロギーから低出生率と両立する生活信条への移行に際して一時期「民族主義的な神がかり状態」が訪れるという状況がイランに生じているというのがエマニュエル・トッドの見方である(図録1548コラム参照)。つまり、復古的に見えるイスラム主義の隆盛は、実は、家族や性の近代化の副産物なのだから、出産奨励というよりは産児制限の方へ進まざるを得ないという訳なのだ。

 平均寿命はイラン革命前は50歳台だったのが現在は75歳と大きく伸びている。経済や社会の発展の成果だと言えよう。ただし、イラン・イラク戦争の時期に一時期大きく落ち込んだ。特に男性の落ち込みが激しかった。これは両国で100万人以上の戦死者を出したと言われるイラン・イラク戦争の影響である。

 戦争が長期化するとイラン各地では14〜15歳の少年まで戦地に駆り出されたという。また、国境地帯ではフセイン政権に率いられたイラク軍の毒ガス兵器による被害も生じた。当時、米国をはじめ多くの国がイラク側を支援していたため、化学兵器使用を追求する動きは生まれなかった。のちに米国は同じフセイン政権に対して化学兵器を含む大量破壊兵器の保有という疑惑で2003年のイラク戦争をはじめたが、イラン人はこうした米国のご都合主義に対して強い怒りを抱いている(鵜塚健「イランの野望」集英社新書、2016年)。

 性比についてはトルコの中高年の低さ(男性がかなり少ない)に比べるとイランはそれほどではない点が異なっている。

(2021年12月8日収録、12月9日トルコとの対比コメント、2023年1月18日更新)


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