江戸前という言葉は「江戸前の風を団扇で叩き出し」という川柳があることなどから分かるとおり、宝暦ごろにはウナギのことを特に指していたが(三田村鳶魚「江戸の食生活」)、その後、江戸前で獲れる魚などに広く適用されていったといわれる。 明治初期の東京府統計表に記載された漁獲物は「江戸前の魚」としては何が多かったかをあらわしていると考えられるので、これをグラフにした。さらに関連して、明治初期に生産されていた食品を水産食品、農産食品、洋風食品に分けて産出額を同時に示した。 産額が多い江戸前の魚は芝エビ、アサリ、白魚、イワシ、カキ、赤貝、ウナギ、アナゴなど。水産食品では、鮓、乾海苔、刻昆布である。鮓が料理品ではなく水産食品として掲載され、水産食品の中で産出額が最も多い点が注目される。海苔は養殖なので漁獲高には登場していないが、東京湾で養殖されていたものなので江戸前産品と考えることができる。 比較のために現在の東京湾の漁獲高を下表に掲げた。量ではあさり類、額ではすずきがトップとなっており、この2種類が量でも額でも7割以上を占めている。明治初期ほど多様な魚が獲れているわけではないことが分かる。
水産物以外では蕎麦切が全体の中で単品の品目として群を抜いて最大であり、江戸では蕎麦が如何に多く食されていたかがうかがわれる。生、揚、焼の豆腐がこれに次いでいる。 江戸は京阪より店が多く、特に鮨・蕎麦の二店はほぼどの町内にもあったという守貞謾稿の記事については図録7762コラム参照。 データの1876年は、明治4年(1871年)に断髪令が出され「散切頭(ザンギリあたま)をたたいてみれば文明開化の音がする」といわれるようになった5年後であるが、文明開化の味がする牛肉やパンなど洋風食品の産額は、なお、江戸時代以来の食品と比べるとずっと小さかったことが分かる。 漁獲額最大の「芝エビ」の名は、かつて芝浦(東京都港区)の産物として有名だったことに由来する(小学館「日本語源大辞典」2005年)。現在漁獲されていないので意識にのぼらないが、地域ブランドの元祖ともいうべき存在である(図録0347参照)。 なお、図中に芝エビ部分のみを掲げた歌川広重画の広重魚づくし「伊勢海老・芝海老」(1832年)には次ぎの歌が記されている。「汐ぬるみにえたつやうな夏の日にわきて出たる芝浦の蝦 年庵真千門」 なお、江戸時代、芝海老の美味と生きの良さになぞらえてだと思われるが、「伝法(でんぼう)でおきゃんな」ことで知られる芝神明の芸者は「芝海老芸者」の異称で呼ばれるようになったという。 芝エビはかつては寿司ねたとしても使われた。「芝蝦の身を煮て細末にし、すしの上にのせたる鉄火鮨といふは身を崩しといふ謎なるべし」という記述がある(西沢一鳳「皇都午睡」1850年)。のちにマグロの身を切り(もち)くずしたやくざ(鉄火)ずしという意味でマグロずしを意味するようになった鉄火ずしは芝エビずしからはじまったようである(「図説江戸時代食生活事典」の「海苔巻」の項)。 香りが高いので芝エビのデンブを塩抜きしたエビの握りにはさんだりもしたらしい(篠田統「すしの本」岩波現代文庫p.87)。 ちなみに、「芝」を冠した食品名として「芝煮」という言葉もある。これは「魚肉などの材料をごく薄い味で煮て、その煮汁と一緒に食する煮物」(広辞苑)である。獅子文六「芝浦」(1965)でもメゴチ、ハゼ、その他雑魚を醤油とショウガでざっと煮ただけの料理として紹介されている。江戸時代以来の芝浦漁村の地元料理法に由来するものと考えられる。 隅田川から延びる航路を除く東京湾の5m未満の深さの海は、今は埋め立てられ羽田空港、お台場などとして利用されているが、下図のように、1940年頃にはまだ一面にのり養殖場となっていた。 浅草の特権商人が浅草近辺で盛んだった和紙の技術を応用して板海苔に加工。品川や大森など江戸湾の漁民に海苔製造の下請けをさせ、これを浅草海苔と称し全国に広げたため、「浅草海苔」は江戸産の海苔の代名詞になったといわれる。1962年には皆無となった東京湾ののり養殖がはじまったのは江戸時代、1684〜1704年のころで、品川・大森の海岸にはじまり、やがて芝浦、深川、葛西方面に広がっていったといわれる。 (2018年7月8日収録、2022年2月13日「東都名所大森」)
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