栃木・群馬/徳島・高知の人口倍率は、以下のような推移をたどっている。 1721(享保6)年 1.6倍 1846(弘化3)年 0.8倍 1881(明治14)年 1.0倍 1920(大正9)年 1.6倍 1945(昭和20)年 1.9倍 1970(昭和45)年 2.1倍 2015(平成27)年 2.7倍 江戸時代中期には栃木・群馬エリアが徳島・高知エリアの人口を1.6倍上回っていたが、栃木・群馬エリアが幕末に反転するまで人口減少傾向を続け、一方、徳島・高知エリアは人口増加傾向を継続していたので、江戸末期には人口が逆転し、1881(明治14)年に再逆転するまで逆転状態が続いていた。 その後は、基本的には、栃木・群馬エリアの人口増加率の方が高い状態が続いたため、人口倍率は拡大を続け、1920年には享保6年と同等の水準になり、1970年以降は2倍を越えている。 明治期以降のこうした人口規模格差の拡大は、基本的には、北関東の機械産業の発達と比較して四国における産業発展のポテンシャルが相対的に低かった点に要因が求められるだろう。これに加え、北関東が東京圏に隣接している点も条件の差として作用していたと考えられる。 明治期以降の両地域の人口動向は、増加率の差はあるが、同じ方向を向いている。戦中、戦後直後の疎開や引き揚げによる人口急増とその後の減少もそうであるし、近年の高齢化に伴う人口減少傾向もそうである。 しかし、これとは対照的に、江戸時代における両地域の人口動向は、まったく反対の方向を向いていた。明治以降は全国的に共通した社会変動の下にあるのに対して、江戸時代には各地域が必ずしも共通のリズムで動いてはいなかったといえよう。 中四国から北陸、西東北、北海道へ伸びる北前船経済圏では経済成長が続き、経済が停滞的なその他地域とは対照的だったことが、こうした人口動向をもたらしたと考えられる。一挙に地域経済構造が変化するのは、幕末の開港・開国によってである。海外との貿易が本格的に拡大したのに伴い、輸出品の中核を占めた養蚕・製糸業の発達を見た北関東をはじめとするかつての人口停滞地域は人口増に転じ、他方、輸入品との競合が起こった北前船経済圏の地域の人口増の勢いは相対的に低下したのである。 江戸時代は主に人口の横ばいから停滞的な社会だったと考えられていたが、図の原資料である速水融(1983)も述べている通り、地域別に正反対の動きが合成されて横ばいになっていたに過ぎないことを忘れてはならない。全国が共通方向という明治期以降の動きからの類推で江戸時代は全国的にどこでも停滞的だったと見るのは誤りだといえよう。 最近江戸時代のGDPの動きが推計され、人口の動きとは裏腹に経済成長的には停滞的ではなかった点が明らかになっている(図録1150a参照)。江戸時代が単純に停滞的だったとする見方は、明治政権と左翼思想家の双方にとって江戸時代を暗黒ととらえることが、立場上、好都合だったから広がった思い込みに過ぎないといえよう。 (2019年1月8日収録)
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