1.北海道からの移出の状況 まず、幕末・明治初期の北海道水産物の移出の状況について上図にまとめた。 幕末1857年の移出先としては、全体移出量71.2万石のうち、大阪・兵庫が最も多く、30.1万石、42%を占めていた。これに次いで、下関や北陸地方が多く、いわゆる西廻り航路の沿岸地域が大部分を占めていた。江戸や関東・東北太平洋岸は8.2万石、1割強を占めるに過ぎなかった。これは鰊魚肥需要が西日本の綿花、藍、蔗糖などの商品作物地帯に多く、北海道と結ぶ日本の経済の大動脈が西廻り航路沿いに形成されていたからである。もう1つの魚肥種類である干鰯の生産が関東で多く、これとの競合も考えられる。 なお、大阪・兵庫、下関、加賀・越中・能登・越前への移出が多いのは、これら地域から、それぞれの周辺地域への再移出も多いからだと考えられる。 次に、こうした輸送を行うため北海道の港に入った船の船籍別の艘数を見てみよう。近世においては蝦夷地への船舶出入は松前藩ないし幕府によって強く統制されており、運上金の徴収のためもあって必ず指定港(箱館・福山・江差)を経なければ許されなかった。出入船舶は、2,545艘のうち、松前船は120艘と少なく、加賀・能登・越中の船が1,500艘と他を圧倒していた。これに次いで、越後や越前の船が多く、いわゆる北前船によって北海道水産物の移出が担われていた様子が明確である(北前船については図録7810参照)。 幕末から明治初めにかけ、北海道からの移出水産物は全体の移出の9割を占め、その内容も変わっていない。1879年の水産物移出金額を見ると、鰊魚肥が半分を占めている。鰊粕は鰊を大釜で茹でその後油や水を絞った粕、胴鰊は食用の身欠鰊を取った後に干したもの、白子、笹目はニシンの内臓やエラを干したものでありいずれも肥料となる。鰊粕は安価ではないが肥料効率は胴鰊より高い。 2.北海道からの移入の状況 北海道からの移入品の構成を地域別に見ると下図の通りである。北陸日本海側では食用魚類中心、北陸では胴鰊中心、瀬戸内海では鰊粕中心であることが分かる。 地域別の鰊魚肥需要の内容については、多量に移出された西日本で「廉価な笹目鰊が移入されず高価な鰊〆粕が主に移入されたのは、この地域の農業が綿作・藍作・甘藷栽培・菜種作等商品生産の形をとって高度に発展し、その肥料として使用されたため」とされる(荒居1963)。北陸では胴鰊や笹目鰊が多く、肥料効率のよいが高価な〆粕は少なかった。また新潟以外の東北では、生産力も高くないため、鰊魚肥の域外からの移入はほとんどなかった。
食用の塩鮭鱒は、東京移出が第一で、越前越後出羽の地方がこれに次いでいたという。 昆布は本州でも広く使用されたが、当時清国向け輸出品の筆頭でもあり、本州の港からさらに清国へ向け輸出された分を含むと見られる(昆布輸出については図録0669参照)。 金沢に入った身欠きニシンは、「かぶら寿司」の庶民版の食べものである「だいこん寿し」に利用されるようになった(図録7805参照)。
<参考文献> ・荒居英次(1963)「近世日本漁村史の研究」新生社 ・荒居英次(1988)「近世海産物経済史の研究 」名著出版 ・梅村又次(1981)「幕末の経済発展」(「幕末・維新の日本 (年報・近代日本研究〈3〉) 」山川出版社) (2011年12月12日収録、2013年4月10日地域別移入品構成の図・コラムを追加)
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