ところで天皇陛下自らが象徴としての行為として何を重視しておられるかついては、次の言葉が参考となる。「(私は)日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。(中略)日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました。皇太子の時代を含め、これまで私が皇后と共に行ってきたほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支ええる市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」。そしてこの後に冒頭の引用へと続くのである。 こうした言葉をきいて、私は、古代には、天皇や族長が小高い丘などから君臨する地域の状況を眺めることで地域の安寧を予祝する「国見」が行われていたことを思い出した。万葉集の「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つうまし国ぞ蜻蛉島大和の国は」などはこうしたある意味宗教的な習慣をうたっているといわれる。天皇陛下の「全国に及ぶ旅」はこうした習慣の現代版といえないこともない。 図録には天皇・皇后両陛下が全国の都道府県をこれまで訪れた回数を掲げた。海外訪問の国・地域別回数は図録7980参照。 皇居から比較的近く、行事も多く、静養先の御用邸がある関東・静岡・長野への訪問が多いが、これらを除くと、かつて皇居があった京都、あるいは被爆地の広島、長崎、あるいは沖縄戦が戦われた沖縄への訪問が多いことにも気がつく。3大都市圏の中で愛知は人口規模の割にはやや少ない。そしてまた全国都道府県全てに足を運ばれたこともよく分かる。東北の中でも宮城、福島への訪問が多い。大地震被災地への訪問も国民にとって印象的である(図録5239の年表参照)。 天皇陛下の全国訪問については、更新前の集計をもとにした東京新聞の記事を以下に引用しよう(2016年8月9日)。 「即位後の地方訪問は1989年5月、全国植樹祭が開かれた徳島県からスタート。全都道府県を一巡したのは2003年11月、奄美諸島の復帰50周年記念式典に出席するため、鹿児島県を訪問した時だった。 陛下は即位してから、できるだけ早く全国を回りたいとの意向を持っていた。都道府県の持ち回りで開かれる国民体育大会、全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会は「三大行幸啓(ぎょうこうけい)」と呼ばれ、皇后さまと毎年出席。開催県だけでなく、隣県に足を延ばすこともあった。被災地への慰問や戦没者の慰霊にも力を尽くしてきた。 即位以降、陛下の国内訪問は14年までで東京都内が1,129件、御用邸での静養などを除き都外が270件の計1,399件に上る。都内では国会開会式や全国戦没者追悼式、学術・芸術分野の授賞式、福祉施設への視察などに訪れている。16年4月の福生市訪問で、皇太子時代を含め島しょ部を除く都内すべての市区町村を訪れた」。 振り返れば、昭和天皇も、戦後の1946〜54年に、戦災からの復興状況を視察する「地方巡幸」を行い、返還前の沖縄県を除く全都道府県を訪ねている。これは昭和天皇自身の意向とGHQの意向とが合致したためと言われる(毎日新聞2019年4月17日)。これらの大半は戦前からの習慣のまま昭和天皇の単独訪問だった。 昭和天皇が香淳皇后とともに地方行事に出席するようになったのは、1949年に神奈川県と東京都などで開かれた国民体育大会の第4回大会からであり、50年に山梨県ではじまった全国植樹祭など、地方巡幸とともにはじまった行事に2人で参加することがその後慣例となった。天皇・皇后両陛下そろっての地方訪問はさらに、被災地訪問など、定例行事以外を含めて原則になっているが、昭和天皇・香淳皇后のやり方を引き継ぐとともに拡充している訳である。
(2016年8月9日収録、10月1日図表現改善、2019年4月17日更新、4月30日主な被災地等訪問表)
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