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 戦後60年の節目の年に当たって、第2次世界大戦、特に日本にとっては、アジア太平洋戦争の戦禍について、基本的な数字のグラフ化を図った。すなわち東京新聞の記事に基づき、アジア太平洋地域における各国の戦争犠牲者数(各国政府発表の数字、一部推計)と各地域における日本の戦没者数を取り上げた。(欧米を含めた第2次世界大戦の各国戦没者数は図録5227参照)

 何といっても、中国の戦争犠牲者数が1000万人以上と大きい。日本の戦争犠牲者数も、中国は、中国本土46.6万人、中国東北部(旧満州)が24.5万人、合計約71万人と最も多く、フィリピンの51.8万人を上回っているが、中国人の犠牲者数には遠く及ばない。

 各国の戦争犠牲者は、中国に次いで、インドネシアの400万人、ベトナムの200万人、インドの150万人、フィリピンの111万人と多くなっている。これに韓国・北朝鮮、ミャンマー、シンガポール・マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、タイが続いている。この他、連合国軍捕虜などが6.5万人である。

 日本の戦没者数は、中国、フィリピンに次いで、中部太平洋地域が24.7万人、沖縄が18.65万人、ミャンマーが13.7万人で多くなっている。この他、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、ロシア(モンゴル含む)、西イリアン、インドネシア、インド、樺太・千島、硫黄島、タイ・マレーシア等、北ボルネオと続いている。

 各国戦争犠牲者数と日本の戦争犠牲者数の対比で、フィリピンは、前者が111万に対して後者が52万と約半分、ミャンマーでは前者が15万に対して後者が14万とほぼ同数である点が目立っている。

 2016年1月末、国交正常化60周年に当たり天皇・皇后両陛下はフィリピンを公式訪問し日本人戦没者の碑への訪問に先立ってフィリピン人戦没者の慰霊を行った。これに際して東京新聞の特集記事の中で整理された日米の激戦の中で犠牲になった人々の数は以下の通りである。

フィリピン戦(1941〜45年)での総死者数
フィリピン 約111万人 フィリピン政府の集計
日本 約52万人 厚生労働省の集計
米国 約1万5000人 米国公刊戦史やフィリピンの公式資料を基に、主な戦闘などでの死者数を本紙が集計
マニラ市街戦(1945年2〜3月)の死者数
フィリピン 10万人以上 出典:米国公刊戦史「Triumph in the Philippines」
日本 約1万6000人
米国 約1000人
(資料)東京新聞2016年1月24日

 日本人戦没者数については、遺骨が日本に帰っているかについての遺骨収集割合の図を表示選択で見れるようにした。戦没者240万人のうち遺骨が帰っていない人数が112万4000人と47%にのぼっている。特にフィリピンや旧満州、中部太平洋などで日本に帰還していない遺骨が多い。

 下には、戦没者のうち軍人・軍属の人数を地域別に多い順に掲げた。上図との差が民間人の戦没者である。満州や沖縄で民間人の犠牲者が多かったことがうかがわれる(沖縄戦の戦没者の内訳を含め図録5227参照)。

 さらに旧日本軍の捕虜となった連合軍兵士で捕虜生活中に亡くなった者も戦争犠牲者の一部である。以下に、旧日本軍の連合軍捕虜の主な移送先と死者数を掲げた。連合軍捕虜の状況は下のコラムに記したとおり、一般の戦争捕虜以上に過酷なものであった。戦争に一般的な死への恐怖を逃れるための敵兵の虐待に加え、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という旧日本軍の独特な考えから「軍幹部は「捕虜になる日本兵はほとんどいないはずで、敵兵の捕虜だけを人道的に扱う義務は不公平だ」と考えていた」(田中利幸教授)ことも影響していると考えられる。日本は捕虜の人道的な扱いを定めた「ジュネーブ条約」(1929年)も軍部の反対で批准していなかった。


旧日本軍の連合軍捕虜の主な移送先
  連合軍捕虜 うちオーストラリア人捕虜
捕虜 死者 捕虜 死者
太平洋地域計 約35万人   約2万2000人  
日本国内 約3万人 約3000人 約2800人 191人
泰緬鉄道建設(ミャンマー) 約6万5000人 約1万2000人 約9500人 2646人
サンダカン捕虜収容所
(ボルネオ島(マレーシア))
約2500人 約2500人
(生存者6人)
1793人  
(注)田中利幸広島市立大・広島平和研究所教授、POW研究会の調査による
(資料)東京新聞(2015年1月15日)

【コラム】旧日本軍捕虜の移送先での状況(東京新聞2015年1月15日記事による)

日本国内

 約130カ所の収容所が設けられ、深刻な労働力不足だった炭鉱、金属鉱山、造船所などで働かされた。栄養失調や脚気などの病のほか、米軍による空襲、広島と長崎への原爆投下で、約3000人が犠牲になった。戦後、捕虜虐待のBC級戦犯として収容所幹部ら28人が死刑になった。

泰緬鉄道建設

 軍物資の輸送を目的としたタイとミャンマー国境、415キロに及ぶ鉄道建設。1942年7月〜43年10月の突貫工事に、約6万5千人の連合軍捕虜と約30万人のアジアの労働者が駆り出された。現場は険しい山岳地帯で、ミャンマーが英国領だった時、英国人技師が鉄道建設を断念したほどの難所。約1万2千人の捕虜が死亡し、「死の鉄道」と呼ばれた。一部は今も運行されている。戦後、捕虜虐待のBC級戦犯として収容所幹部ら32人が死刑になった。

サンダカン死の行進

 1945年1〜4月と5〜6月、旧日本軍はボルネオ島北東のサンダカン捕虜収容所の英国人、オーストラリア人捕虜に260キロ西のラナウまで徒歩で物資を運ばせた。米軍の空襲激化に伴う捕虜の移動と島西部の防衛が目的。広島市立大学の田中利幸教授によると、約2500人いた捕虜は病死などで約1800人に減り、このうち約1000人が行進を強制された。到着できた約400人とサンダカンに残った捕虜も終戦までに殺害されたり、病死したりした。収容所幹部5人は戦後、BC級戦犯として死刑になった。

(2005年8月7日収録、2015年1月15日連合軍捕虜・捕虜死者についての表とコメント追加、8月14日各国戦争犠牲者数拡充、日本人軍人・軍属の地域別戦没者数のグラフ追加、2016年1月28日フィリピン戦死者数表追加、2021年8月15日表示選択「遺骨帰還の有無別日本人戦没者数」)


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