日本人のKY嫌いは果たして日本人だけの特性なのだろうか?この点を国際比較で明らかにした。幸い「日本人の国民性調査」を行っている統計数理研究所では、少し古くなるが、同じ調査票でかつて国際比較調査を実施したことがある。この結果を図示した。 これによれば、自己判断で「おし通せ」という考えがどこの国でも多数派であるのに対して、日本では、明らかに少数派である。日本では、自己判断に従うでもなく、世間の慣習に従うでもない「場合による」という考え、すなわち、KYと見なされないよう場の空気を読んで適宜適切な判断をするという考えが半数を越え、多数派である。他の国では、こんな考えは少数派であるのと対照的である。多少、ドイツでは「場合による」がやや多いが、それでもそう答えたのは日本の半分である。 このように場の空気を読み状況対応型の判断をするという日本人の特性は、最近強まってきているのだが、世界的に見て特殊な判断方法なのである。 もっとも世界中で、実際上は、場の空気を読まないで判断しているということはありえない。進化心理学では、類人猿からヒトへの進化にとって、他者Aが自分をどう考えているか、またさらに他者Bが「他者Aが自分をどう考えているか」をどう考えているか、と次々に複雑に理解する程度、すなわち場の空気への把握力の高度化が決定的だったと見なしているぐらいである(ロビン・ダンバー「人類進化の謎を解き明かす」)。 (注)もっとも、心理テストの結果、類人猿でも他者の気持ちを理解することができるという京大・ドイツの共同研究が最近公表された。「相手の誤った認識を推察することなどは「心の理論」と呼ばれ、人間に特徴的な知性で、動物には不可能と考えられてきた」。テストを受けた計40匹のチンパンジー、ボノボ、オランウータンの半分は、他者の勘違いに「基づく行動を予測できた。チームの平田聡教授(比較認知科学)は「類人猿も他者の心を推し量れることを示せた。進化の過程でいつから心の動きを推測できるようになったのかを考えるうえで、一石を投じる研究だ」と話す」(NHK2016年10月7日)。
ただ、ここで取り上げている設問を投げかけられた場合、世界では普通、「自分が正しいと思えば世間の慣習に反しても、それをおし通す」と回答するのがまっとうな態度だと考えられているだけなのである。その中で、日本人だけが、「正しさ」を相対的なものとクールに回答することができるのである。場の空気によっては、「正しいこと」も「正しくないこと」になる場合があると考えるのがいわば常識なのだ。 Fair is foul, and foul is fair. これは、シェイクスピアのマクベスの中で三人の魔女が吐く有名なセリフである。和訳では 「きれいは穢い、穢いはきれい」(福田恆存)、「いいは悪いで、悪いはいい」(小田島雄志)となっている。ベルグソンは平和時に悪徳だった殺人が戦争時には英雄的行為となるような異なる2源泉の道徳の矛盾をこのセリフであらわした(「道徳と宗教の二つの源泉」中公クラッシック、上p.39)。日本人だけが、物事の判断に当たって、「正しいは間違っている。間違いは正しい」と見なす時があることに自覚的なのである。 国際比較では、英米、フランスなどと比べ、ドイツとイタリアも「場合による」の割合が比較的高く、日本的なところが少しある。第二次世界大戦の敗戦国としての経験が影響しているともいえないこともない。正義が一朝にして悪徳に転じた痛い経験をまだ憶えているのであろう。あるいは正義を振り回す戦勝国に抵抗する気持ちがあるのであろう。こういう観点からは、戦後しばらく戦勝国側の精神に同化していた日本人は高度成長を成し遂げ、自信を回復し、敗戦国特有の精神を屈託なく表明するようになり、それと同時に、教義やイデオロギーをもともと嫌う伝統的な精神風土(ダイヤモンド・オンライン連載第6回)に復帰して来ているのだとも考えられる。 下に掲げた各選択肢の回答率を男女別に比較した図を見てみると、「おし通せ」は、米国を除くいずれの国でも男が女を上回っている。「正しいと思うことを慣習や場の状況より優先させるのが男らしい」という価値観がいずれの国でも存在していることがわかる。そういう意味では女性原理が国民的に普及しているのが日本の独自性ととらえることも可能である。 (2016年10月8日収録、2017年1月5日男女別回答率、10月19日男女別回答を別図として独立させ末尾に)
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