(注)セックスのことだがページ内に何回もそうと記述するとグーグルにアダルトコンテンツとみなされる恐れがあるので古い言葉を使った。 貴重な例外はある。作家の永井荷風(明治12年12月3日生)は代表的な業績と自他ともに認める「断腸亭日乗」と題された日記を著し、公刊しているが、その中で、ある時期から、当人はそうだとは明示していないが、記事内容から房事を催したと考えられる日付の上に●点を付すようになった。 これを集計すれば、一日本人の房事頻度が分かる訳である。日銀出身のエコノミストで文学研究家の吉野俊彦は「「斷腸亭」の経済学」(NHK出版、1999年)の中でその作業を行い、結果を表にまとめているので、それをグラフにした。 おさかんということで知られる荷風だがピーク時年89回(週1.7回)は戦後岩手農家の中年夫婦週7回というデータ(図録2263)と比較してそれほど多いわけではない。 荷風は37歳から毎日日記をつけはじめていたのに、なぜ、49歳になって房事のあった日に印を付けはじめたのであろうか。 実は、49歳になったばかりの昭和3年の大晦日には、性欲の減退をめぐって日記にこう記している(「断腸亭日乗」岩波書店。第1次全集版を単行本化したもの。以下引用はこれによる)。 昭和3年12月31日 何といふわけもなく身のまはり裏淋しく、余命のほども幾何ならずといふ心地して、何事をもなす気力なし。視力の衰へも今年に入りていよいよ甚しく、案頭の電燈を点ぜざれば細字を書すること能はざるほどなり。葵山子は予の顔を見るたび、荷子の眉太く長きこと筆の穂の如し。是長命の相なりとまことしやかに言はるゝなり。白髪も一二本はあるやうなれどいまだ目につかず。されど淫欲の失せたることわれながら驚くばかりなり。この春頃までは十日目位には肌ざむしき心も起りしに、秋より冬に入りて半月一箇月たちても更にそのやうな気も起らず。唯暖き室に軽く柔き寝床を設けあかるき燈の下に古書を読むことを望むやうになりぬ。 人肌が恋しくなるまでの日数が長くなったという表現で性欲の減退をあらわしている。 昭和3年から4年にかけては、昭和2年に懇ろとなり、身受けして貸家を与え、さらに三番町の待合「幾代」の経営もまかせた元富士見町芸妓鈴龍こと本名関根うたとの平穏で安定した男女関係が続いていた。「しかし問題は、世話女房として、あるいは待合経営者として彼女に非の打ち所のない事はわかっていても、性の対象として彼女をみる魅力を荷風が喪失していったことであった」(吉野同上、p.187)。上で引いた日記の文章はそれを告白しているものととらえられる。 「彼女との性的関係が希薄になったことは、それが荷風文学の原動力でもあっただけに、彼にとっては大きな問題であった。そしてこの点を念頭におくならば、昭和4年5月4日以降の『日乗』の記事の冒頭に●印が付せられる日が見え始め、それがどうやら女性と交わった回数を示す暗号らしいことが解けてくるような気がする。当初は、幾代か偏奇館に宿泊した日にしか●印は付せられていないから、交わった相手は関根うたであったろう。しかし漸次三番町以外の料亭待合に赴くか、あるいはうた以外の女性が出現している日に、●印が付せられ始めているところから推測すると、荷風はうたに対する淫欲が減退したのか、それとも他の女性との間ならば、まだ淫欲は起り得るかのテストを始めたのではないかと思われる」(同上、p.190)。 昭和5年には関根うたとの関係も続けながら新たに神楽坂芸者山次と、また関根うたと破局後の昭和7年には私娼黒沢きみと新たに親密な関係をもち、その結果もあって昭和5年〜8年は結構な回数が持続している。また次のピークの昭和12年には私娼の道子と関係が深まり一時期は貸家を与えるか自宅に引き取ろうかとも考えた。つまり、新たな女性の魅力にふれることができれば淫欲は必ずしも衰えていかないことがさしあたり実証された格好である(40歳代までの記録はないのでそれと比較してもそうだとは確言しにくいが)。 とはいえ、その後の房事回数は50歳代後半から60歳代前半にかけて上下変動を伴いながらも徐々に減ってはいった。日記の年次別ページ日数の推移はほぼ横ばいであり、活動意欲全般はこの時期衰えていないので、やはり加齢に伴う性欲の減退がまず生じたのであろう(参考までに末尾の図に日記の時期を通したページ数推移を示しておいた)。 64歳になったばかりの昭和18年の年末には以下のように性欲の衰えを日記に吐露しているが、気のせいの側面もあった上記の昭和3年末の述懐とは異なって今度は本当のところなのだろう。 昭和18年12月30日 (玉の井に行き)数年来馴染の家に立寄て見しが今は老衰の身のなすべき事もなし。閨中非凡の技巧を有する者に逢はざるかぎり為さんと欲するところいよいよ為す能はざる年齢に達せしが如し。(中略)漁色の楽消滅する時大抵の人は謹厳となり道義を口にするに至り易きもの也。余は強て自からかくの如きならざらんことを冀へるなり。 房事数記録は当初の目的を終えてもその後も自己確認には有用だったためか、敗戦まで継続し、戦後もかたちを変えて続いて行ったものと考えられる。 荷風も訪れている赤線地帯にあった「東京パレス」における自らの実見分ともからめて図の(注)に記した戦後の印の解釈を行った吉行淳之介の以下のような証言には老境に入った荷風の性行動の一端が垣間見える。 「あるとき、初めての女と次のような会話があった。「永井荷風ていう人、知ってる」と、女が言う。「名前はね」「その荷風さんがこの前きたわ」「へえ、やったのか」「きっちり三十分だけ横にくっついて寝て、なにもしないで帰ったわ」「荷風さんはケチで有名だけど、チップくれたか」「くれなかったわ、三百円(当時、時間=五十分くらいのこと=五百円が相場)だけ払って行ったわ」」(「犬が育てた猫」潮出版社、1987年、p.46) (2021年10月4日収録)
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