厚生労働省は各地の保健所からの食中毒報告を都道府県を通じて毎年食中毒統計として集計している。 日本の高度経済成長期の成果の1つは食中毒事件による死者数の減少である。戦前から戦後1960年頃まで食中毒の犠牲者は毎年200〜300人にのぼっていた。多いときは500人を超え、終戦直後1946年には1,848人のピークを記録している。 「史上最大の集団食中毒事件は昭和11(1936)年5月10日(日)の翌日から静岡県浜松市で発生した。この日、浜松一中(現静岡県立浜松北高)の運動会で配った大福餅が原因で、患者数2千名を超え、そのうち44名が死亡した。食中毒はそれまでにも頻繁におこっていたが、これほど大勢の死者が一度に出た食中毒事件は初めてのことであった。当初はリストラされた雇用人の怨恨説とか、銅鍋のサビ(緑青)による中毒説とか、原因が判明しなかった。患者が学校関係者だけではなく、同じ大福餅を食べた浜松飛行第7聯隊や高射砲第1聯隊の兵士にも及んだため、陸軍軍医学校二等軍医正、北野正次が東京から派遣され、原因を「ゲルトネル氏菌」(サルモネラ菌を当時そう呼んでいた−引用者)と突き止めた。 大福餅を作った和菓子屋は、打ち粉の上をネズミが這い回っているような劣悪な衛生状態だった。運動会で配られた大福餅は一人6個で、白餡と黒餡が3個ずつ、食中毒にあたったのは黒餡入りの大福餅を食べた人だけだった。白餡の上にある黒い糞はすぐに見つかるが、黒餡の上の黒い糞には気が付かなかったというわけである」(森誠「なぜニワトリは毎日卵を産むのか」こぶし書房、2015年、p.64〜65)。図のように1936年は食中毒統計でも戦前最多の死者505人を記録している。白餡と黒餡のエピソードは白餡ではネズミの糞を取り除き、黒餡は目立たないから構わないと和菓子屋は考えたことを意味している。中国では食の安全が深刻な問題となっているが(図録8204参照)、戦前の日本はこれとそう変らない状態だった訳である。なお、原因を突き止めた北野正次は後に通称七三一部隊の部隊長として悪名高い細菌戦を展開した。 高温多湿が特徴の日本ではかつては食中毒は日常茶飯事だった。中高年以上だと、テカテカの黄土色したハエトリ(蠅取)紙が食堂の天井から幾本もぶら下がっていて、飛び交うハエの死骸が何匹も貼りついている光景を覚えている人も多かろう。アジア途上国では今でも食中毒被害は多いと思われる(図録8040参照。国際比較統計についてはWHOで取り組み中)。しかし、その後日本では、下水道の普及、保健所行政による飲食物管理の徹底、コールドチェーンや防腐防菌技術の普及、不衛生店舗の淘汰、国民の衛生感覚の高まりなどにより食中毒事件は減少、死亡数は激減していくこととなる。 衛生国化、清潔国化は1960年頃から大きく進展した。1960年代には急速に食中毒死亡者が減少し、1970年代中頃は数十人レベル、そして1980年代後半からは10人未満の年も珍しくなくなった。 1984年、熊本県の食品会社が製造した真空パック辛子蓮根による集団食中毒事件では11名が死亡した。原因はボツリヌス菌が出すボツリヌストキシンという強毒であった(毒物ランキングについては図録0342参照)。 O157による集団感染が大きな社会的事件となった1996年以降、10人以上の食中毒死亡者が出る年は、腸管出血性大腸菌O157(あるいはO111)による食中毒事件が発生した年に限られている。 2009〜10年には食中毒による死者がゼロ人と統計開始以来の快挙となった。 2011年には、焼肉酒家えびすが起こした牛肉刺身ユッケ食中毒事件による死者が5名、その他、団子・かしわ餅、及び高齢者施設の食事が原因の食中毒で2名の高齢者が亡くなったが、この3件、7人の食中毒死亡者の原因は腸管出血性大腸菌O111、O157によるものだった。その他の原因による4名を加えて食中毒の死者数は11名だった。 「厚労省の担当者は「腸管出血性大腸菌による食中毒は重症化しやすいことが、あらためて浮き彫りになった。対策を強化したい」としている」(東京新聞2012年3月18日)。 2013年の食中毒死者は植物毒によるもの、2014〜15年は動物毒(ふぐ)と植物毒によるものである。2016年には再度腸管出血性大腸菌が大きく増加した。 腸管出血性大腸菌0157、0111による食中毒事件
(2012年4月22日収録、2014年3月27日更新、2015年4月28日更新・国際比較引用、2016年3月29日更新、浜松の集団食中毒事件についての引用追加、2017年8月24日更新、10月24日辛子蓮根による集団食中毒事件の記述、2018年8月7日更新、2020年7月15日更新、2023年1月11日更新)
[ 本図録と関連するコンテンツ ] |
|