古代にはインドは中国の2倍ぐらい人口がいたという数字もある。ところが1600年には中国がインドを人口規模で上回った。 その後停滞インドに対して中国は順調に人口を伸ばしたが、インドも近代化の流れの中で19世紀後半には人口が急増する。1950年の時点では中国は5.5億人とインドの4.5億人を1億人上回っていた。 人口抑制政策を取った中国に対してインドはより高い人口増加率を示し、1996年に再逆転した。2020年の時点では中国は14.3億人に対してインドは17.9億人、現インドのみでは14.0億人となっている。 国連による将来人口推計については中国は2021年にはピークの14.3億人に達するが、インドは人口が伸び続け、2071年に23.4億人のピークをしるすと予測されている。そして2100年には中国は現在より少ない7.7億人にまで落ち込むのに対して、インドは21.9億人と約3倍を維持すると見られている。 なお、1500年以前の人口の推移が図のようになだらかだったわけではない。例えば、下には中国の唐代中期の人口推移を掲げた。 唐代中期、玄宗の在位45年は、晩年の1〜2年を除くと中国史上まれにみる平和な時代であり、以下のような要因で経済が発展し、人口も大きく伸びた(宮崎市定「大唐帝国」全集8による)。
乱は安禄山の部下だった史思明に引き継がれ、763年まで続いた(従って安史の乱と呼ばれる)。両人とも相続権をめぐり長子である、それぞれ、安慶緒、史朝義に殺された。「外にむかっては強い反乱指導者も、内側には致命な弱点を有していたのは不思議である」(p.293)。 図の通り、当時の公式統計によれば、人口は3,600万人減少し、中国の人口規模は約三分の一の規模にまで縮小したとされる。とんでもなく大きな災禍が襲ったわけであるが、世界の人口規模対比では、モンゴル帝国の征服を上回る史上最大の犠牲者数という見方もあるぐらいである(図録5228b)。 しかし、764年の戸数、人口は実際よりかなり少ないため、この犠牲者数の見積もりは過大であるようだ。「そんなに多数の人民が死亡したとも思われない。これは都市が破壊されて人民は農村に逃れ、農村には調査の手が十分に及ばなかったためと思われる。さらに他の要因は、史朝義は殺されたが、その旧部下の賊将らはおおむね帰順するとともに地方の軍職に任ぜられ、しかもいぜんとして半独立の態勢を持し、境内の戸口調査の報告などを行わなかったと思われるのである」(p.294)。 (2007年7月24日収録、2010年7月21日歴史人口データ変更、国連推計更新、2015年10月30日国連推計更新、2016年9月25日安史の乱前後の人口推移、2019年6月28日国連推計更新、2022年12月6日国連推計更新)
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