グラフを見れば分かるとおり、西欧都市の奉公人(servant)人口比率は、中世都市においては20%台と高かった(イングランドの古い3例、フランスの古い2例)。ところが、17〜18世紀以降には、だいたい10%のラインを大きくは超えない水準にまで下がっている。 日本の都市奉公人人口比率は、江戸時代初期の17世紀には、やはり、江戸も大坂も西欧中世都市と同レベルの20%前後であったが、その後、江戸においては、急速に低下し、西欧と比較しても低いレベルとなっている。他方、大阪については、むしろ上昇し、江戸時代末期には、最も高い水準となっている。 奉公人は住み込みの働き手を指すが、商家の番頭・丁稚のような雇い人(年季奉公人)と家内使用人(女中など)の両方を含む。また住み込みの職人なども含まれる場合がある。 西欧における中世以降の奉公人人口比率の低下の趨勢は、「なによりも問屋ないしは大商人のもとにおけるアプレンティス制度の崩壊によってリードされていた」とされる。背景としては農村工業、プロト工業化の大きなうねりがあったことがあげられている。他方、「比率の減少がそれほど劇的ではなかったのは、おそらく職人層における徒弟制の根強さと、一方では富裕市民層の家事使用人需要の増大ということと関係があった」とされる(斎藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」NTT出版、2002年、以下引用は同様)。 日本においては江戸と大阪で奉公人比率が逆方向に推移している。 大阪で奉公人比率が上昇したのは、「商家奉公人雇用の内部化」、すなわち商家奉公人が長く商家に勤め種々の仕事を経験し年功を重ねながらながら職位を登り、最後に暖簾分けに至る内部労働市場の形成が支配的であったためである。これが、のちに都市ホワイトカラーだけでなく、ブルーカラーをも包摂し、年功序列と終身雇用が特徴の日本的経営につながったといわれる。 当初は大阪と同様奉公人が多かった江戸において奉公人比率が顕著に低下したのは、江戸においては住み込みの奉公人が、長屋住まいとはいえ所帯を持って自立する雑業層に代替する動きが支配的であったためである(こうした動きは江戸時代初期には高かった大都市の男性比率が末期にはほぼ女性と同数となった点にもあらわれている−図録7850参照)。日本においてはこの「雑業者化の動きが西欧におけるよりも徹底したものであった」とされる。その背景としては、「わが国における職人の徒弟制度的伝統がそれほど強くなかったこと、家事使用人すら短期契約化させる方向にむかっていたことがあった」。 日本的経営の中に組み込まれた労働者階層とともに日本のモノづくり文化のもう一方の担い手である町工場の職人世界は、近世都市の雑業者の生活文化を受け継ぎながら、むしろ、明治維新以降に農村部から都市へ流入した働き手の生業的な伝統を労働文化として加えて成立したと斎藤修(2002)は述べている。 大阪の奉公人経営をひとつの源とし日本型経営の一要素となった終身雇用(正確には長期継続雇用)は「大企業」に特徴的であり、一時はむしろ江戸の雑業者をひとつの源としていた「中小企業」もこれを目指していた点については、図録3800参照。 (2010年9月24日収録)
[ 本図録と関連するコンテンツ ] |
|