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明治初期には、江戸時代以来の花街である新吉原と柳橋の芸妓数が最も多かったことが分かる。 幕末安政期にできた新橋や烏森の芸妓数もかなり増加してきている。繁昌の中心がシフトしたのは、江戸情緒を大切にする柳橋の芸妓が、田舎武士出身の明治の官員とそりが合わなかったせいで、交通新拠点に開かれた新興の花街である新橋へと人出が流れたためであるといわれる(図録7846参照)。 軍や政府関係者でにぎわった赤坂の芸妓人数は、まだ明治初期には少なかったこともうかがえる。 新宿、根津、新吉原、品川、板橋、千住は遊郭所属の芸妓人数である。根津遊郭は1888年(明治21年)7月洲崎(江東区)に移転したため、その後根津芸者もいなくなった。移転の理由としてはすぐ近くの本郷に1877年に開学した東京帝国大学の学生に悪影響を及ぼさないためと言われている。実際、文学者として名高い坪内逍遥は文学部政治科の学生だった時代に同級生に誘われて遊郭を訪れて遊女・花紫と出会い、3年越しで通いつめ、卒業(1883年)後にはついに結婚した。 明治後期には、明治初期から全体としてかなりの人数が増加している点、また新橋、赤坂、浅草などの増加など繁昌地の盛衰がうかがえる。 表示選択の明治末期の図は花街ごとではなく当時の警視庁警察署管内別の芸妓数を示している。当時市外(郡部)だった新宿、品川などの廓芸者の人数も示されている。 東京市編「東京案内」には、花街の起立時期が記載されているので、それを以下に掲げた。江戸時代までの花街と明治以降起立の花街が混在していることが分かる。
比較のために昭和初期の状況を図録7846から以下に再録した。 (2021年4月29日収録、5月13日明治後期(末期)の図の資料を東京市編「東京案内」から「警視庁統計書」へ変更、7月3日後期図追加)
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