静岡県は県内の地域区分として、大きく、駿河、遠江、伊豆の3つに分かたれる。

 静岡市を中心とする駿河(駿州)、浜松市を中心とする遠江(遠州)は、東海道沿いに位置し、駿河は、徳川家康が晩年暮らした駿府城があり、明治以降も県庁所在地、県の中心部として発展し、遠江は、やらまいか精神の浜松を中心とする地域がテクノポリスに指定され、ホンダ、スズキ、ヤマハなどをはぐくんだ工業地域として、独特な存在感を放っている。

 これに対して伊豆(豆州)は東海道という主要幹線上に位置しない半島地域であることから、温泉や療養、観光面を除くと産業発展の動力が弱く、やや取り残された観のある地域として認識されている。

 この図録ではこうした静岡県の3地域の長期的な人口動向を追った。

 伊豆の国の国府があった三島市(およびその隣の田方郡函南町)は、当然、伊豆の一部であったが、同時に東海道沿いの地域であり、半島部とはいいがたいので、現在、静岡県の統計上の地域区分の「伊豆半島」には含まれず、「東部」に区分されている。しかし、ここでは、三島市や函南町を旧来の地域区分通り伊豆に含めて集計している。

 もっとも過去に遡ったデータ年次である1872(明治5)年には、駿河、遠江、伊豆は、それぞれ、40.0万人、41.7万人、15.1万人の人口を有していた。人口の割合は、それぞれ39.5%、44.5%、16.1%である。

 現在(2020年の国勢調査)の駿河、遠江、伊豆の人口は、176.6万人、148.9万人、37.9万人であり、人口の割合は、それぞれ48.6%、41.0%、10.4%である。

 この間の人口の地域割合の変化としては駿河の4割から5割近くへの上昇と伊豆の16%から10%への低落が目立っている。

 時期別に見ると、戦前から戦後の1950年頃、高度成長期が本格化する前までは、駿河と遠江はともにほぞ同規模の人口で増加を続けていた。高度成長期が本格化する1960年以降は、駿河が先行して人口が急増し、その後遠江が追いかけるかたちで人口が増加した。人口のピークは駿河も遠江も2005年であるが駿河の方が早く横ばいに転じていた。

 伊豆は、指数の動きを見ると明らかな通り、静岡県内における1889年の東海道線の開通までの20年間は、駿河や遠江の人口の動きに劣るものではなかった。その当時は、なお、江戸時代からさかんだった太平洋側の海上交通路上に位置していたことから風待ち港などとしての機能を果たしていたのである。

 江戸時代において伊豆の人口動向が駿河や遠江に劣るものではなかった点、伊豆だけでなく同じ半島部の能登や安房についても、その時代の先進地域として内陸部と比較しても大いに栄えていた点は図録7859を参照されたい(末尾に江戸時代の国別人口推移をそこから再録)。

 しかし、その後、陸上交通路である東海道筋から外れていたため人口の動きも増加を続けていたものの増加率は駿河や遠江を下回った。

 1940〜47年には伊豆で一時期人口が急増したが、これは全国的に疎開や引揚者の入植で農村部ほど人口が増加したのと同様の動きと見られる。戦後の人口増の動きは駿河、遠江と比較して鈍く、両地域より早く、1995年をピークに人口減に転じている。

 なお、1970年代前半には伊豆でも人口が急増したが、これは伊豆地域の中でも三島市や函南町といった駿河に隣接する地域の人口増によるものであり、半島部としての動きではない。三島市は伊豆の国府があったのでここでは伊豆に区分しているが、実際はむしろ東海道筋の地域としての性格が強く、上述の通り、静岡県統計年鑑でも三島市は函南町とともに伊豆半島地域ではなく、東部地域に区分されている。

 下図に伊豆を北伊豆と南伊豆に分けた長期人口動向を示したが、南伊豆の人口のピークは1950年であり、純粋に半島部としての伊豆の人口動向としてはこちらの方が近いと考えられる。



(2022年11月18日収録)


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