太平洋戦争末期、沖縄県は住民を巻き込んだ激烈な地上戦の戦場となった。1945年6月23日、日本軍による組織的戦闘が終わった日をもって「慰霊の日」とされている。

 爆弾を積み連合国艦船に体当たりする旧日本軍の「特別攻撃」は、無条件降伏から条件つき降伏に持ち込むための「一撃講和」という結果として空しい考え方の下、この沖縄戦に集中し、陸海軍合わせて約2,600人の若い命が失われた。

 東京新聞大図録では「沖縄慰霊の日」に合わせ、沖縄戦の航空機特攻による戦死者が沖縄周辺のどこから飛び立ったのデータを掲載しているので、これを図録化した。

 出撃地点は台湾から沖縄・鹿児島の島しょ部、そして九州一円と広範囲である。

 データは海軍と陸軍の別に示されている。海軍では鹿児島県鹿屋から出撃した605人が最も多く、同県串良からの341人が続いている。

 陸軍では鹿児島県知覧から飛び立った394人が最も多く、熊本県の健軍からの134人がこれに次いでいる。

 陸海軍ともに台湾からもそれぞれ100人以上が出撃している。

 下には、海軍の航空特攻の実施時期別の戦死者数を掲げた。特攻が集中したのは、米軍が上陸し、日本の地上部隊が阻止しようと激しく抵抗した4〜5月上旬であった。なお、6月の組織戦終了後も飛び立つ隊員がいた。


 なお、特攻には航空機以外に、海軍が「特殊潜航艇」(小型潜水艦)、人間魚雷「回天」、高速ボート「震洋」を開発、投入。陸軍は小型舟艇による「海上挺進戦隊」が組織され、戦車も特攻兵器とした。沖縄やフィリピンなどの戦場で投入された。私事にわたるが、筆者の亡父は「回天」の生き残り(一期前まで出撃)である。

 飛び立った場所を図の順に掲げると、台湾、石垣、宮古、沖縄、徳之島、古仁屋、喜界島、指宿、知覧、万世、鹿屋、串良、第一国分、第二国分、出水、都城、宮崎、新田原、健軍、太刀洗、席田である。

(2024年6月23日・24日収録)


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