1932(昭和7)年から試験移民が4年間にわたって入植、36年には広田弘毅内閣が20年間に100万戸の送出計画を国策として決定、以後毎年組織的に多数の農民が渡航した。1945(昭和20)年敗戦時には27万人(あるいは32万)がいたといわれる。 開拓団は府県、郡、町村などの地縁関係で編成されたが、日中戦争期には、一つの村の人口を組織的に分割し、1戸当りの耕地を増大させて母村の更生を図る「分村移民」が強力に奨励された。しかし戦時体制への移行は多方面に労働力を必要として成人移民を困難にしたため、数え年16〜19歳の少年による満蒙開拓青少年義勇軍の送出が行われ、戦争末期にはこれが移民の主力となった。 一般開拓移民と義勇隊員では「武装移民団」として満州という日露戦争以来の日本の特殊権益地域を守ろうという使命感については以下のような違いがあったという。 「移植民に対する使命感の強弱とそれが本質的に内発的なものか否かということは、一般開拓移民と義勇隊員では多少異る。一般開拓移民のそれは、弱いながらも内発的なものであるのに対し、義勇隊員は、強いながらも植え込まれたものなのである。実際に義勇隊員として満州に渡った下伊那郡の大平明氏は、義勇軍参加は自分の意志というより教師の強い勧誘によるものであり、形としては志願ということにはなっているが、勧誘がなければ志願などしなかったと語っている。義勇軍送出に際して、教師の果たした役割は非常に重要であると言わざるを得ない」(小林信介(2005)「満州移民送出における民衆動員の過程と背景〜最大送出県・長野県を事例として〜」p.57)。 満蒙開拓団の多くがソ連・満州国境地帯に入植し、中国人・朝鮮人の既耕地を収奪する結果となった。この点に関して、満映の巡映課長をしていた大塚有章氏の証言を聞こう。「元来、日本政府が各県で編成された開拓団を盛んに満州に送りこんだのは、満州経略の拠点とするためであって、未開墾の原野を拓いて耕地を拡大するためではなかった。だから日本の開拓団は名称こそ開拓団だけれども、実は中国人が開墾した農地を雀の涙ほどの保障金で取り上げて、その後に居坐ったものである。追い払われた中国農民はさらに奥地に移動して困難な開墾に従事せざるを得なかった。日本人開拓団は入植のときから、中国の農民に対してこうした横暴をやっているから、両者の間には強い反目が続いているのが普通であった」(大塚有章「新版未完の旅路5」三一新書、1976年)。 第2次大戦敗戦直前、ソ連の対日参戦で約70万人の関東軍は撤退、多くの場合中国農民に恨まれていた開拓団は置き去りにされ、開拓団の男性が軍に「根こそぎ動員」されていたことも合わさって悲惨を極めた逃避行の中で約8万人の命が失われた。侵略者の日本人を恨む中国人に襲撃されたり、絶望の果てに集団自決したりしたのである。また子どもたちが取り残されて中国残留孤児の悲劇が起きた。 信越放送のディレクターがかつて満洲移民だった高齢者を中心に取材しまとめた「幻の村 哀史・満蒙開拓」(早稲田新書、2021年)によれば、14歳で開拓団に参加した男性は、集団自決の夜、母親たちがわれ先にわが子の首を絞める光景に呆然としていると、大人に叱られた。「何しているんだ、早く手伝ってくれなくちゃ」。どれほどの時間、何人に手をかけたかわからないと語ったという(東京新聞「書評」2021.10.2)。 岐阜県の黒川村(現白川町)周辺から渡った黒川開拓団の女性が、団幹部の指示でソ連兵に性的な「接待」をした歴史は従来は語ることがタブー視されてきた。「吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した黒川開拓団は1945年8月の敗戦で現地住民らからの略奪に遭った。団の男たちは侵攻してきたソ連軍に警護を頼み、代償に未婚の若い女性を差し出した」のである(東京新聞2019年8月14日)。ドイツにおけるようなソ連兵の蛮行への防止策が目的という訳でもなかったようだ(図録5227c参照)。 やっとのことで日本に帰国しても農村に受け入れる余裕はなく、国内の新たな開拓地でも苦労した人が多かった。農村調査を行うと高地など悪条件の土地に集団入植した元開拓団引揚者の集落に出会うことがある。 満蒙開拓団の移出が多かった地域は下表の通りである。長野が開拓団、義勇軍、合計の人数、及び人口比のいずれでもトップである点が目立っている。長野では人口の2.2%が満蒙開拓に行ったというのであるから非常に大きな歴史的経験だったことがうかがわれる。
長野県内の地域別の送出状況を分析した小林信介(2005)によれば、移民せざるを得ない困窮農民が多いかどうかという点は送出数と相関せず、むしろ、長野でさかんだった農民の小作争議や教師の思想運動などの社会運動が当局によって厳しい取り締まりを受けた反動で、それらを防止し、またそれらに対抗するため地域の中心人物や教育界(信濃教育会)が取り組んだ「国策追従路線」として満蒙開拓への積極関与が生じたとされる。開拓団送出人数が長野が最も多く、山形がこれに次いでいるという都道府県別の違いも、こうした送出地域の特殊事情が大きく影響していると見られる。 長野では、信濃教育会が善光寺、信濃毎日新聞とならび「長野県3大タブー」の一つといわれている(図録7315参照)。信濃毎日も当時積極的に満蒙開拓を促進していたことは信濃毎日新聞デジタルの「戦時下の信濃毎日新聞、満蒙開拓を一貫支持。敗戦までの13年で関連記事700本超」という題名の記事(2024.5.19)にも明らかにされている。 下の写真は、毎日新聞の2018年8月26日に掲載された満蒙開拓団の姿である。キャプションには、「盗賊の襲来に備えて銃を持って農作業をする日本から満州に渡った青少年たち=山形市の滝田博さん提供」とある。開拓団が武装していたことがうかがわれる。 (2018年8月16日収録、8月26日写真掲載、2019年1月9日大塚引用、8月14日黒川開拓団、2021年10月2日集団自決事例、2024年5月19日信濃毎日当時記事数、長野県内市郡別送出人数)
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