この調査の結果から、報道の自由をめぐる国民意識の違いについて見てみよう。 まず、報道の自由が常に保障されるべきかという問に対しては、各国民ともに8割以上が「そう思う」と答えており、報道の自由は重要だとの認識を示している。ただし、英国、韓国、日本は、他の国と比較してややこの割合が低くなっている。 他方、報道への圧力については、2017年度までしか調べられていないが、「現在の報道を見ていると、圧力をかけられても仕方がない」という回答が高い国と低い国とが対照的である。タイと中国では「仕方がない」が8割前後と多数を占めているほか、欧米でも、英国では6割が「仕方がない」と考えており、圧力をかけられるとしても報道の方にも問題があると感じているようだ。 米国、韓国、フランスでも5割前後は圧力をかけられても「仕方がない」と答えており、報道側にも問題があるという認識は万国共通であるようだ。 日本については、世界各国と比較して水準は低いが、やや増えて約4割が、やはり、「仕方がない」と回答している。 エドガー・アラン・ポーは、19世紀半ばに彼が創始した探偵小説の中で、先入観だらけの殺人事件報道への論評として、名探偵オーギュスト・デュパンにこう語らせている。「いったい新聞の目的というものはね、真実を追求することよりもだよ、何かセンセーションを起こすこと――ただ議論を立てる、ということにあるってことをね、ぜひとも忘れちゃいけない。前者の目的は、ただね、後者の目的と一致するかに見えた時だけ、追求されるにすぎない」(「マリ・ロジェエの迷宮事件」、中野好夫訳、岩波文庫p.158)。 報道機関のそもそもの性格について、こうした印象をいずれの国民も抱いているわけである。 次に、同じ調査による結果から、メディアに対する政府の圧力は「是か非か」についての国民意識を、2番目の図で取り上げた。 こちらでは、日本人のメディアに対する見方が、他国と異なっている点が、一層目立っている。すなわち、ほとんどの国で、「政府が国益を損なうという理由でメディアに圧力をかけるのは当然だと思う」人が「そうは思わない」人よりずっと多くなっている中で、日本人だけ、両者が大きく逆転しているのである。 最初の図で報道の側に問題があると考える人が多かったタイ、英国、中国で、「圧力をかけるのは当然と思う」が「そうは思わない」を大きく上回っているだけでなく、米国でもかなり上回っている。また、韓国、フランスでも両者はほぼ拮抗している。 米国は2017年初頭から、トランプ政権となって、政権の特定のメディアに対する非難、圧力は強まっているが、意識調査では、むしろ、「そうは思わない」人の方が増えているのは皮肉である。 日本人がここで見たように政府のメディアに対する圧力を、他国と異なり、はっきりと「非」と考えている理由としては、最初の図で見た通り、報道の自由の理念を強く抱いているからではない。そうだとすれば、メディアの不行状の程度が小さいため、メディアへの信頼度が比較的高いのと、逆に、政府への信頼度が他国と比較して非常に低い点とが合わさって影響していると見ざるを得ないであろう。メディアへの高い信頼度と政府への低い信頼度については図録5215、図録3963参照。 いずれにせよ、日本人の感覚で、諸外国における報道の自由やメディアへの圧力について判断すると、間違えが生じる可能性が高いといえよう。 (2018年8月13日収録、2021年2月17日更新、4月19日更新)
[ 本図録と関連するコンテンツ ] |
|