ここでは、日本人の自然観がどのように推移してきたかを見る。 質問は、人間が幸福になるためには「自然に従わなければならない」か、「自然を利用しなければならない」か、「自然を征服してゆかなければならない」か、というものである。 現在は「自然に従う」派が46%と半数弱を占めており、「自然を利用」派は42%、「自然を征服」派は6%と少ない。 1953年からの変化をみると、利用派の割合は4割程度で変わらない一方で、征服派が減って、従う派が増えるという変化を辿ってきている。 征服派は戦後すぐには2割強とそう多くはなかったが、経済の高度成長期には増大し、34%にまで達した。ところが、1973年には、2割以下へと急落したのが目立っている。その後も征服派の割合は低落し続けた。 1968〜73年の大変化は公害問題が1970年前後にマスコミでも連日大きく取り上げられ、70年11月には公害国会(公害対策基本法における経済との調和条項の削除など14法案すべて可決)が開かれるなど爆発的な一大社会問題となったためである。1971年の環境庁(現環境省)発足の影響、1971年〜72年に新潟水俣病、四日市公害、富山県イタイイタイ病、熊本水俣病といういわゆる四大公害裁判の判決が続いた影響もある。自然を征服しようというのは人間のおごりではないかという考え方が急速に広がった訳である。 一方、自然に従う派は公害問題を契機に増加したが、その後も、特定の企業等がひきおこす公害問題から大気汚染、水質悪化など国民生活一般がひきおこす環境問題、そしてそれがグローバルな温暖化につながるという地球環境問題へと自然との関わりについての人間の課題が深化・拡大するに伴って、さらに増加してきたのである。近年のいわゆるエコ・ブームもこうした長期傾向を背景としていることはいうまでもなかろう。 なお、「自然との共存」か「自然の支配」かという世界価値観調査の結果では、日本は他国と比べて最も「自然との共存」が多く、(図録9490参照)、これが日本人の自然観の特徴となっている。これまでふれたように、日本人も高度成長期の後半には、経済の成功につられて自然改造型の自然観に傾斜した時期もあったがその後従来の姿勢に戻ったということができよう(当初、自然改造型を欧米型と記載していたが、下で見たような国際調査の結果を見ると誤りだったことが分かる)。 従来の姿勢に戻ったというより、自然改造型の自然観からの反動が行き過ぎて、ありのままの自然を保護べきだというエコ・ファシズムともいうべき観念的で非現実的な自然観に至っているという批判もある。日本では水田景観のような人手の加わった自然生態系を長きに渡って育んできたことを忘れているという訳である。「日本人ぜひ参考とすべきはドイツの歴史的経験である。もはや、日本の自然も人間が手を加えて育てなければ、自力で再生できないところまで追い込まれている。どこかの時点で、自然を育てるという発想に転換しなくてはならないことは言うまでもない」(林知己夫「数字からみた日本人のこころ」徳間書店、1995年、p.164)。 「日本人の国民性調査」と同じ設問で国際調査した結果を以下に掲げた(図録9489からの再録)。「自然を征服」という回答は、欧米で多くなるという予想に反して、むしろ、アジア、特に中国、ベトナムといった社会主義国で多くなっている。日本は欧米と並んでこの回答の割合は小さいという結果である。 アジア諸国で「自然を征服」が多いのは、高度経済成長のさなかにある国が多いからという側面もあろう。日本も高度成長期には「自然を征服」が多かったのである。 しかし、日本の場合、高度成長期に「自然を征服」が多かったのは「自然に従う」が少なかったからである。現代のアジア諸国は、「自然を利用」が少なく「自然に従う」が多いという特色をもっており、この点で、かつての日本とは異なるのでヘンである。 アジア対欧米は「自然を利用」が「少ない」対「多い」という対比が目立っている。モンスーンや酷暑、植物繁茂といったアジアの自然に対しては、中途半端に利用できないので、従うか、征服するかどちらかといった感覚が強いのであろうか。日本はアジアの中では高緯度にあるため、「自然を利用」できると考えている点で、もともと、欧米に近い感覚なのかもしれない。 (2010年3月13日収録、2014年10月31日更新、2017年4月3日国際比較グラフ、4月4日国際比較グラフは図録9489として独立、4月6日コメント補訂・林知己夫引用、2021年12月25日更新)
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