これを「シベリア抑留」といい、抑留生活は長期に及んだ(1956年12月26日最後の引き揚げ船が舞鶴入港)。地域別犠牲者数を示した上図からもうかがわれるとおり、抑留者はシベリアだけでなく広大な旧ソ連全土に連行された。
収容地区(ラーゲリ)は個々の収容所がいくつも集まったものであり、収容地区は通常、支部、分所の順に枝分かれしていたという。収容所では軍隊の階級が当初そのまま持ち込まれ、食物や衣服は上官から優先支給され、一般兵の苦労は並大抵ではなかった。このため、上表のように、一般兵の犠牲者は通常の日本軍の構成以上に多かった。元シベリア抑留者を父親にもつ私の友人の話をきくと、そもそもソ連軍侵攻に対して、将校・下士官の方が捕虜にならないよう一般兵に先んじて戦地から逃げたことがこうした構成の一因になっているのではとも思われる。なお、スターリンは戦争捕虜以外にも、数多くの自国民をシベリアに送り込み、捕虜と同様の労働を強制して、ソ連の復興と大国化の手段とした。 1956年10月の日ソ共同宣言で補償請求権が相互放棄された後、国は元抑留者・遺族に慰労金等を送る「平和記念事業特別基金法」を成立させた(1988年5月)が、多くの元抑留者が国に対して「慰労」ではなく、未払い賃金の「補償」と「謝罪」を要求し続けた。 2010年6月に成立した「シベリア特措法」により、元抑留者に帰国時期に応じて25〜150万円の一時金を支払うこととなり、これまで司法の場では実現しなかった「補償」がはじめて行われることとなった。元抑留者の平均年齢は88〜89歳で、あまりに遅いという批判がある。 寒さ、飢え、労働の三重苦ばかりでなく、社会主義思想への賛同グループと非賛同グループの間の日本人同士のつるし上げや密告など家族や友人にも話せない過酷な経験があったことが知られている。また抑留者は帰国後も日本で、ソ連による洗脳疑惑から「シベリア帰り」として差別された。私の世代では、シベリア抑留体験を元にした詩人石原吉郎の詩や散文(「望郷と海 (1972年) 」)は必読書であった。 国内のどの地域でシベリア抑留の犠牲者が多かったかについては図録8971参照。 (2011年8月15日収録、2014年9月21日地図追加)
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