ラテンアメリカの主要国であるアルゼンチン、ブラジル、チリ、メキシコ、ペルーの1人当たりGDPの推移のグラフを掲げた。1人当たりの実質GDPの推移を2015〜18年平均の米国ドルベース値でつないだグラフも参考までに同時に掲げておいた。前者は過去の各年の為替レートでの米国ドル評価であるので、当時の各国の地位を端的に表示している。後者は実質GDPの伸びを人口1人当たりで表示したものであり過去からの推移を示している。後者は各国の購買力平価(PPP)ベースの実質GDPの伸びを人口1人当たりで表示したものである。中南米諸国は物価や為替の変動が大きいため、それらの要素の影響を取り除いた後者の推移は前者の推移よりずっと変動幅が小さい。

 俳優の仲代達也は映画界では「世の中には男と女と女優しかいない」と言われていたと語る(春日太一「仲代達矢が語る日本映画黄金時代」)。男優という存在はないと諧謔的な笑いを浮かべながら。同様に、ノーベル賞経済学者のサイモン・クズネッツは、「世界には4種類の国がある。それは、先進国と後進国とアルゼンチンと日本である」と語ったといわれる(The Economist 2015.12.7)。アルゼンチンの動きは確かに目立っている。

 1人当たりGDPの推移を見ると2001年まではアルゼンチンのレベルがラテンアメリカでは最も高く、経済水準が先進国に最も近かったことが分かる。同年のデフォルト(債務不履行)の影響で2002年には半分以下と大きく落ち込み、それ以降にレベルを急回復させたが、なお、ラテンアメリカ首位の座はチリに譲ったままである(アルゼンチンの2001年のデフォルトをめぐる経緯についてはコラム参照)。

 アルゼンチンは1982年にも大きな落ち込みを記録しているが、これは1982年に当時の軍事政権がインフレの進行などの経済的不満を外に逸らすため引き起こしたとされるフォークランド紛争(マルビナス戦争)の影響である。フォークランド紛争の敗北で軍事政権から民政移管が行われ、1989年にはペロン党右派のメネム政権が成立し、年金まで民営化して市場経済化を進める新自由主義政策がはじまった。

 1991年には1ドル=1ペソとする「カレンシーボード」という仕組みを導入、資本の流入により経済は活性化し(コラム参照)、図に見られるような他のラテンアメリカ主要国をはるかに引き離すようなレベルアップが実現した。ところが、同時に進行した国債依存による放漫財政で債務がふくらみ、2001年に債務不履行(デフォルト)に陥った。

 世界史の窓によると、「2001年末、人々は預金が引き出せなくなることを知り、銀行に押しかけ、取り付け騒ぎが起こった。支払い不能に陥った銀行に対して民衆の怒りは爆発し、首都ブエノスアイレスで暴動が発生、白昼堂々、略奪が横行し、人々はデパートやスーパーを襲撃した。事態を収拾できずに内閣が次々と交替、なんとわずか2週間で5人もの大統領が入れ替わった。ようやく2003年、左派(ペロン党左派)のキルチネル政権がそれまでの新自由主義経済政策を止め、富裕層優遇の停止、貧困の救済、社会的不正の根絶などに務めた結果、経済も持ち直した。」

 それ以降、チリと同等の経済成長を続けた(といっても初発の落ち込みを回復してはいないが)が、2014年には「計画的債務不履行」で再度GDPが落ち込んでいる。世界史の窓によるとこうした状況に至る経緯は以下である。「2007年、キルチネルの妻のクリスティーナ=キルチネルがアルゼンチン史上初の女性大統領として当選。リーマンショックにも影響されずに堅調な経済成長を維持していた。ところが、2014年にアメリカのヘッジファンド(私的に大口投資家から資金を集め高額な配当を狙って投資を請け負うファンド)が、2001年に債務不履行となった債権を買い取り、新たに債務支払いを求めてアメリカの裁判所に提訴した。アメリカの裁判所がヘッジファンドの訴えを認めたため、アルゼンチン政府は新たな支払い義務が生じたが、キルチネル大統領は防衛的措置として「計画的債務不履行」を宣言した。アメリカ及びヘッジファンド対アルゼンチン政府という、新たな金融戦争の状況となっている」。

 コロナの影響で2000年に各国経済が落ち込んでいるが、アルゼンチンは特に激しいアップダウンの経済情勢にある。

 他の4カ国は1980年代にはそれほど大きなレベルの差はなかったが、まず、メキシコが比較的に順調な経済発展をとげ、次に、2000年代に入ると、チリ、ブラジルが急速な成長を開始し、メキシコのレベルを追い抜いているのが目立っている。しかし、ブラジル、メキシコは2015年以降に大きな後退を経験している。ペルーは、かなり出遅れていたが他国に比べ変動は大きくない状況である。

 実質の動きを見ると最近アルゼンチンをチリが追い抜いたことが分かる。

【コラム】アルゼンチンの2001年のデフォルトをめぐる経緯

 以下に、竹森俊平「欧州統合、ギリシャに死す」(講談社、2015年)の第3章をもとづき、2001年のアルゼンチンのデフォルト(債務不履行)をめぐる経緯と最近のギリシャをめぐる欧州債務危機との共通点について整理した。

 1991年にアルゼンチンは「カレンシーボード」という仕組みを導入した。これは、ドルに対して自国通貨ペソを1ドル=1ペソで固定してしまおうという仕組みであり、ペソの現金の発行量をアルゼンチンのドル準備額に合わせて調整していくことにより実現される。「カレンシーボード」を導入する2年前の1989年のインフレ率は5103%とまさにハイパーインフレーションの状況だったが、1991年から年毎に89%、17.5%、7.4%、4.2%、3.4%、0.2%と見事にインフレ率は低下した。

 現金の供給を外貨準備の増加に合わせて増加させるという極端に緊縮的な金融政策を取ったため、経済成長率が下がったかというとその反対だった。1994年のメキシコ危機、1997年のアジア通貨危機、1998年のロシア債務不履行といった世界経済の混乱要因に大して影響されず経済成長と遂げた。グラフの1人当りGDPの推移を見てもこれはうなずける。このため、IMFなども発展途上国で成長率を高める決定的な戦略と考え、ことあるごとに当時のアルゼンチンの経済運営を褒めたという。

 こうした高い成長は海外からの資本流入が拡大したからである。1ドル=1ペソが実現したと投資家の目にも映るようになると金利の安い米国国債よりも金利の高いアルゼンチン国債に投資した方が有利になると見なされるので、アルゼンチン国債への投資が伸び、金利もどんどん下がっていく。これは「ギリシャがドイツと同じ通貨(ユーロ)を使用して以来、マーケットがギリシャ国債も、ドイツ国債と同じように安全なものと考え、どんどん投資していった結果、ギリシャ国債の金利がドイツ国債並みに低下していったという話とまったく一緒なのです」(p.118)。

 こうしてどんどん海外から資本が流入し、国内投資を増やすことが出来るようになり、政府は安い金利で外国に国債を売って資金を得られるようになった。そこで年金を大盤振る舞いしたり、公務員の給料を上げたりもできる。政府の借り入れも「さすがに中央政府は、次第に自重するようになったのですが、地方政府は最後まで抑えが利かなかったそうです。とくに選挙でもあればアウト。政治家は票を集めようとして、大盤振る舞いをする。そのために借りまくる」(p.119)。

 こうした一種のバブル経済の下、現金ペソは「カレンシーボード」の仕組みで発行を抑えられていても、預金残高は信用創造で増え続け、マネーサプライは拡大し、経済の拡大循環が継続する。しかし、巨大に膨らんだ借金に不安を感じ、預金をペソの転換しようとする要求が起ったとき、バブルは維持できなくなる。銀行の取り付け騒ぎに対して、ペソの価値が大幅に下落するとドル建ての巨額な借金を返せなくなるので「カレンシーボード」を維持しようとし、従って現金ペソを増発することができない政府は、収拾がつかなくなり、IMFから2000年の12月に140億ドルの融資の最初の支援を受けることになった。

 IMFの貸し出しで外貨準備を拡大した時に少しだけ収まったものの経済状況は2001年を通して悪化を続け、預金の流出とドル兌換の要求は続いた。政府は財政赤字が要因と考え同年7月に財政赤字ゼロという方針を発表し、公務員給与を10%、年金を13%カットという強引な施策まで実行したが、信用は戻らず、GDPはどんどん減り、政府の人気も急落する。

 IMFは本来の役割である短期的な救急措置ではなくアルゼンチンの構造的な財政金融問題に対して第二次支援策を実行するかについて、コンテージョン(世界経済への悪い波及)を防ぐために実施するか、それとも結局支援が銀行を救済して国民に負担を負わせる結果となることを避けるために実施しないかで悩んだ末、2001年8月に80億ドル支援策を実施した。

 「結局、アルゼンチンは2001年12月に債務のデフォルトを宣言して、翌2002年1月にはカレンシーボードの仕組みも止めてしまいました。デフォルトを宣言する4ヵ月前に供給されたIMFの第二次支援の融資は、民間の債権者への支払いに回され、彼らを助けることにしかならなかったわけです。このことに対しては、IMF内からも批判がありました。IMFは支援を申し込んだ国を救済するのが目的で、国際的に活動する銀行を支援するのが目的ではない。それなのに、銀行しか助けない政策を実行したのはけしからんというわけです。

 そこでIMFは、俗に「ノー・モア・アルゼンチン・ルール」と呼ばれる内規を作りました。支援を申し込んだ国の財政が、「中長期的に持続可能である確率が高い」のでなければ、IMFはその国に支援をしてはいけないというのです。技術的な用語を使っているのでわかりにくいのですが、ようするに、その国が返済不能な借金を負っている状態なら、IMFとして「追い貸し」をしてはいけないということです。(中略)

 IMFの支援の目的として、「コンテージョンの防止に重点を置くべきだ」という考え方と、「ノー・モア・アルゼンチン・ルールに従うべきだ」という考え方の二つがあって、ギリシャ危機の場合でも、この二つの考え方の対立が深刻に発生したということです。その意味で、2009年以降のギリシャ危機の展開を左右するような諸要因が、その8年前、2001年のアルゼンチン危機への対応において、すでに準備されていたと言えると思います」(p.132〜133)。

(2015年11月11日収録、12月3日クズネッツ引用、2018年6月2日更新、2019年9月6日仲代達也引用、2023年11月20日更新)


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