ほぼ9世紀に限って全国各地に配置され独特な存在感を示していた日本のコサックともいうべき俘囚については余り知られていない。ここでは、俘囚の全国配置の状況を図録とした(以下、データ、コメントともに下向井龍彦「武士の成長と院政 」講談社(2001年)による)。

 肥後(熊本)が722人で最も多く、近江(滋賀)、下野(栃木)、常陸(茨城)が437人、416人、416人で続いているが、ほぼ全国に分布している様子が分かる。地域的には、関東・山梨と四国・九州にややまとまりが認められる。関東武士、肥後もっこす、土佐いごっそうなどとの関わりも気になるが詳しいことは分からない。

 俘囚とは、奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた大量の帰服蝦夷を指し、当時、国は、これら俘囚を強制的に全国各地に再配置(内国移配)し、税を免除し生計費(俘囚料)を与えて扶養していた。これは、第一に教化による公民への同化のため、第二に、地方の受領の傭兵的な武力として、郡司富豪層の中で乗馬が巧みな「勇敢者」「武芸人」と称された者とともに、群盗海賊鎮圧に当たらせるためであった。平将門や藤原純友の乱が起こった10世紀には、政府の俘囚奥州帰還政策により俘囚は奥州以外では見られなくなった。

 この異民族集団がのちの武士の精神的な源であったと考えられる(私見では血縁的な源であったことも否定できないと思われる)。例えば、律令国家の直刀ではなく、俘囚戦士の疾駆斬撃戦に適した「柄反り」のある蕨手刀が日本刀の起源となった(下図参照)他、俘囚のライフスタイルである非農業定住民特有の「野性」、発達した上半身と華奢な下半身という体型まで生んだ乗馬と騎射の習俗も、上述の「武芸人」や後の武士に引き継がれたといえよう。

 日本刀への変遷


 武士の起源に関するかつてと異なる新しい見方として、律令国家の収奪に対して開発所領を守るために武装した在地領主が武士になっていったのではなく、こうした在地領主が律令国家の乱れに乗じて得た既得権益を国政改革から守るため起こした地方の反乱・蜂起を国家が鎮圧するための勢力として位置づけた武装スペシャリストから武士が生まれたとする考え方があるが、こうした武装スペシャリストが学んだのが俘囚の戦い方や精神だったという訳である。武士のはじまりとしては超人的な武芸の伝説を有する平高望、藤原利仁、藤原秀郷(俵藤太)が名高いが、かれらの数代前の祖先が俘囚とともに活動したと見られる。

 武士(サムライ)の起源は蝦夷・俘囚だと考えた明治時代の歴史家として喜田貞吉をあげることができる。

「蝦夷は実に古えにおいて佐伯部もしくは夷俘・俘囚の名のもとに、すでに兵士として用いられ、また貴紳の従僕として役せられ、事実上、武士すなわち「サムライ」たるもの少からざりき。しかして彼らは勇悍にして、かつ忠実なるものとして重んぜられたりしなり。その間また東人なるものあり。直接、間接に蝦夷の影響を受けたるのものにて、同じく兵士として用いられ、貴紳の従僕として役せられき。彼らまた事実上、武士すなわち「サムライ」たるもの少からざりしなり。官兵尫弱に流れ、他地方の民また怯懦たるに当りては、この夷俘・俘囚と東人とのみ、ことに武人として信頼せられき。後には夷俘・俘囚らも次第に同化して、いわゆる東人と相択ばざるものとなり、ここに東国より奥羽に渉りて武士なる一階級を生じたり。彼らはいわゆる武士道を重んじ、その主すなわち「頼うだ人」のためには身命をも惜しまず、進むを好み、退くを恥じ、ひたすらに、名を重んずること、古えの佐伯部が「海行かば水浸く屍云々」と称えられ、東人が「額には箭(や)は立つとも背は箭(や)は立たじ」と賞せられたりしと同一なりき」(「武士を夷ということの考」)。

 なお、俘囚の存在が確認できる地域は、数の多い順に、肥後、近江、常陸、下野、播磨、筑前、甲斐、筑後、美濃、豊後、土佐、武蔵、相模、遠江、上総、下総、伊予、越中、伯耆、出雲、肥前、上野、越前、美作、讃岐、越後、因幡、加賀、備前、信濃、備中、佐渡、伊勢、日向、駿河、尾張、摂津、和泉、丹波、備後、安芸、周防、長門、阿波、豊前である。

(2007年7月9日収録、2022年3月15日喜田貞吉説)


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