江戸時代の身分別人口の構成を知るため、明治維新直後に版籍奉還を機にして諸改革の参考資料を得るため維新政府が各藩に命じた調査にもとづくデータを図に掲げた。

 全国では、士農工商の士、すなわち華士族・卒を含めた支配階級が6.4%、神官と僧が1.2%、農工商の平民が90.6%、エタ・非人が1.7%となっている(明治に入って将軍・大名及び公卿は華族に、これらの家臣だった武士、宮侍等は士族もしくは卒に編入された−卒はのちに士族か平民の何れかに再編された−)。

 平民のうち農工商の割合は以下の明治6年の15歳以降有業者の割合から推測することができる(資料は上図と同じ、以下同様)。農が8割、商工が1割(商工は2対1)、合わせて平民が9割という勘定である。

(明治6年15歳以降有業者割合)
 農 79.2%
 工 3.5%
 商 6.6%
 雑 9.1%
 雇人 1.6%

 地域別の割合を見ると東北や四国、九州で士族の割合が多くなっている。これは、こうした地域では城下町に在住せず、農村部で平常農耕に従事していた在郷諸士が多かったためと考えられる。下記の藩ごとの武士の比率で中村藩の比率が非常に多いのも同様である。

(諸藩の武士の割合)
 南部藩(1711年)6.9%
 久保田(秋田)藩(1849年)9.8%
 陸奥中村藩(1681年)26.0%
 津和野藩(1805年)7.2%

 明治4年の鹿児島県禄高調べによれば薩摩藩(薩隅日三州)の旧武士である士卒の割合は26.38%と非常に多かったというデータもある(原口虎雄「幕末の薩摩」中公新書、1966年)。

 また、エタ・非人の構成比の違いを反映していると考えられる「その他」の割合は、東北、東海が1%台と少なく、畿内と西日本が3〜4%と多くなっている。

 農村部に居住している身分別人口の例を以下に掲げる。ここでは、身分的な区分、職業的な区分、障害区分が混在している。

農村地域における身分別人口(豊前小倉人畜改の例−豊前8郡1622年−)
  人数 構成比(%)
御惣庄屋 73 0.5
頭百姓・小百姓 1,217 8.5
名子 9,323 65.1
町人 391 2.7
坊主 369 2.6
山伏 44 0.3
神主・社人 168 1.2
はかせ 15 0.1
はちひらき 57 0.4
念仏申 1 0.0
牢人 759 5.3
かはた 22 0.2
水夫 137 1.0
鍛冶 152 1.1
大工 50 0.3
山之口(之番) 159 1.1
川口之番 13 0.1
境目之番 9 0.1
上野焼物師一類共 34 0.2
  人数 構成比(%)
かみすき 1 0.0
らかん荒仕子 1 0.0
ささら作り 1 0.0
ささらすり 6 0.0
すみやき 16 0.1
瓦やき大工 6 0.0
檜皮葺仕者 3 0.0
紺屋 13 0.1
やねふき 5 0.0
ざるかたげ 155 1.1
日用取 9 0.1
おどり子 5 0.0
塩売 65 0.5
ひものや 2 0.0
ぬし 1 0.0
30 0.2
奉公に罷出候者 44 0.3
めくら 88 0.6
こしぬけ 869 6.1
14,313 100.0
(資料)関山直太郎「近世日本の人口構造」吉川弘文館、1958年

【コラム】穢多・非人

 士農工商の身分外として差別されていた江戸時代の賤民階級については、滝川政次郎(1928)「日本法制史」の記述が分かりやすいので以下に引用する。「日本法制史 (下)」 (講談社学術文庫 (693)) より。)

 穢多・非人は、江戸時代賤民階級の主要な構成分子をなしたものである。穢多・非人なる名称は、前代においては、ほとんど同意義に使用されていたが、この時代には、この両者は明確に区別され、前者は主として皮革製造を業とする者を意味し、後者は主として物貰(ものもらい)渡世をなす者を意味した。されば江戸時代の穢多は、明らかに前代の皮多の子孫であって、この種族がこの時代に全賤民階級を代表する大種族になったのは、戦国以来皮革の受容が高まり、彼らの生活が容易となったために、その人口が急激に増加したからであろう。江戸時代における賤民の総人口は明かでないが、明治4年(1861)穢多・非人名称廃止の際における賤民の総人口は、682,886人であって、そのうち穢多は280,311人、非人は23,480人、雑種賤民79,095人ということになっている。

 ここでいう雑種賤民は、夙(しゅく)、穏亡(おんぼう)、山窩(さんか)、乞胸(ごうむね)、猿飼(猿曳)、垣外(かいと)、茶筅(ちゃせん)、簓(ささら)等の、前代においては皮多と同列になった賤民である。

 (穢多の生活は他の賤民に比して豊かであった。また人口増加が急激であり、洛外11部落の人口は1715年の2,064人が1907年には12,4652人と200年足らずに約7倍となった。)

 穢多は、中世の末以来、類似の専門を多くその中に包容するに至りしため、その名称及び職業は地方によって区々であって、その多くは穢多、エッタと称されて皮革の製作に従事したが、所によっては皮多、皮屋、番太(番太郎)、長吏(長吏坊(ちょうりんぼう))、細工、ハチなどと称せられ、皮竹細工、染物などを業とする者もあった。(中略)穢多は、いわゆる帳外者であったから、租税を負担しなかったが、官のために死刑を執行し、晒小屋の張番(はりばん)をなす等の公役(くやく)を負うた。

 江戸時代の非人は(中略)他人の施与によって生活するものであって、これには抱(かかえ)非人と野非人(のびにん)との二種があった。抱非人は、非人人別に入り、非人小屋頭すなわち抱主の支配に属する非人であり、野非人は、無宿の非人である。また非人は、これをその出自によって、生得の非人すなわち非人素性(すじょう)の者と、犯罪によって平人(へいにん)の非人となった者(不義の情死未遂など)と、貧困の結果平人が自発的に非人になったものとに区別することができる。犯罪による非人と生得の非人とは、穢多と同じように、いわゆる足を洗って素人(しろうと)となることは、絶対にできなかったが、自発的に非人となった者は、非人となってから十箇年を経過しないうちなれば、親族縁者の引き立てによって、また再び素人に立戻ることができた。

(2012年12月8日収録、2018年3月4日薩摩藩の士卒割合)


[ 本図録と関連するコンテンツ ]



関連図録リスト
分野 地域(国内)
テーマ  
情報提供 図書案内
アマゾン検索

 

(ここからの購入による紹介料がサイト支援につながります。是非ご協力下さい)