日本では、新聞・雑誌に対する国民の信頼度が高く、その分、新聞・雑誌などマスコミの影響力は大きい。この点を、すでに、図録5215で見ているが、ここでは、対象国を増やし、また政府に対する信頼度との相対関係についても分析した。

 2017〜20年に実施された2017年期の世界価値観調査によると、新聞・雑誌(英語ではThe Press、プレス)を「非常に信頼」、及び「やや信頼」している国民は、日本の場合、69.3%にのぼっており、図に掲げた78か国中、ベトナム(79.3%)、フィリピン(71.2%)、バングラデシュ(71.1%)に次ぐ世界第4位の高さとなっており、第5位の中国(68.2%)を上回っている。

 日本の信頼度は、先進国の中では断然1位であり、2位のポルトガル(50.4%)、3位の韓国(49.6%)を大きく凌駕している。

 世界全体を見渡すと、途上国と儒教圏で新聞・雑誌に対する信頼度は高く、欧米先進国、中でも英語圏(英国、オーストラリアなど)では、信頼度が低いという一般傾向が見て取れる。

 もちろん、例外はある。途上国でもクロアチア、コロンビアなどは信頼度が低く、儒教圏では台湾が信頼度が低くなっている。

 台湾の新聞・雑誌の信頼度が2017年期に26.2%と例外的に低かった点については(2005年期には16.3%ともっと低かったが)、在外中国人向けメディアのサイトでこう記されている。「国境なき記者団の報告書では、台湾メディアの報道に対する信頼度はアジア環太平洋で最下位であることも明らかにした。胡教授は、台湾のメディアは一時的な視聴率を獲得するために、人騒がせな犯罪報道や所謂社会報道が多く占めていると指摘した。実際、台湾の民衆はこれらの報道は国家の発展にとって何の役にも立たないため、これらの報道メディアに対して反感を覚えることが多々あると分析している」(大紀元2006/11/10 、胡教授とは台湾師範大学マスコミュニケーション研究所の胡幼偉教授)。世界価値観調査の1994年調査における台湾の新聞・雑誌の信頼度は39.1%とそう低くもなかったので、2005年期(台湾は2006年)当時の諸事情による影響が大きいと考えられる。もっとも、その後、2010年期には28.4%、2017年期には26.2%となお低水準のままながらやや戻している。

 世界全体を見渡した散布図から読み取れるもう1つの特徴は、途上国では政府への信頼度と新聞・雑誌への信頼度がほぼ平行しているのに対して、先進国では、両者に相関関係が認められないという点である。

 これは、途上国では政府系メディアの支配力が強いのに対して、先進国では政権に対してマスコミが独立を保っているからだと考えられる。


日本の特徴

 欧米先進国のG7諸国の中で、最も新聞・雑誌に対する信頼度が高いのは、ドイツの35.6%であり、これにフランスの30.2%が続いている。新聞・雑誌を信頼している人は、G7諸国では、日本のほぼ半分以下であるという点は、実に、留意すべき重要な事実だと思われる。

 日本では報道への政府の圧力を「非」と考える傾向が強いが、それは、報道の自由の理念からというより、ここでふれたマスコミへの信頼度の高さによるものだと思われることを図録5212hでふれたので参照されたい。

 日本の特徴は、新聞・雑誌(プレス)への信頼度が高い点に加えて、政府に対する信頼度が低いため、新聞・雑誌の信頼度の政府の信頼度に対する倍率が、2017年期に、2.5倍と世界の中でも最も高くなっている点である。

 G7諸国の数字を比較した上の図を見ても、2番目に高いイタリアの1.3倍の2倍程度となっている。またG7諸国のうち英米では新聞・雑誌(プレス)より政府の信頼度の方が高い。図には2005年期、2010年期のデータも掲げたが、同様の傾向である。

 つまり主要先進国では政府の発表はマスコミがどう報じようと国民は信じるしかないという傾向があるが、日本では、政府がどんな発表をしてもマスコミがこれを認めるかたちの報道を行わないと国民はこれをなかなか信じないという傾向があるのである。日本では報道人の社会的地位が高く、また政府がマスコミがどう報じるかを気にするのが当然のこととなっているのも頷けることである。

 日本の報道では、海外諸国と同様、事故、災害、病気、犯罪、自殺など負の社会現象が大きく取り上げられる。これは、日本では、社会を良くするためには、そのマイナス面をよく認識しなければならないといったポジティブな動機に裏づけられており、それだけに大きな使命感に満ちているように見える。これは、真実の追求というより社会改善を優先する儒学者的な気風がマスコミにあるためだと思われる(拙著「統計データが語る 日本人の大きな誤解」日経プレミア、参照)。

 そして、こうしたマスコミの傾向は、戦前から日本社会の底辺に広がっていた社会改善気風と通底しているようだ。「民間のすぐれた伝承者が文字をもってくると、こうした単なる古いことを伝承して、これを後世に伝えようとするだけでなく、自分たちの生活をよりよくしようとする努力が、人一倍つよくなるのが共通した現象であり、その中には農民としての素朴でエネルギッシュな明るさが生きている。そうしてこういう人たちを中軸にして戦争以前の村は前進していったのである」。これは宮本常一の代表作「忘れられた日本人」の最後の一文である。

 欧米ではマスコミの言うことをそのまま信じる者は少ない(図録5215)。それに対して、上で見たように、日本人など儒教国の国民は、「文」に対する従来からの尊重精神から、マスコミの言うことを真に受ける傾向が強い。このため、社会のマイナス面の指摘に偏りがちなマスコミの報道が、自分たちの社会に対する暗い見方を必要以上に増幅するという副産物を生んでいるのも確かであろう。そして、これが、おそらく、高い所得水準の割に日本など儒教国の幸福度が低い大きな理由のひとつになっていると思われる(図録9482参照)。

 日本人のマスコミ信頼度が異例に高い理由についてはさらに後段に述べる。

政府は「オオカミ犬」か

 2021年8月に南房総で「オオカミ犬」が逃げ出し、とうもろこし畑で捕物帖になったのが報道された。「目は血走り、興奮。住民は恐怖に」とナレーションで伝えられたが、オオカミと犬を交配した雑種である「オオカミ犬」は実は性格は臆病で人見知りであるのに、オオカミとつく名前が引き起こす視聴者の思い込みを当て込んで不必要に興味を引き起こそうとする一種の誤報だった。あおった報道をしたテレビ朝日に対して、コメンテーターの玉川徹社員自身がイエローカードを出したことが少し話題となった。

 日本では、もともと政治家や政府が信頼されていないので、コロナ対策などの政府の政策についても新聞・テレビが「また失策」と銅鑼を打ち鳴らして報道すると大した根拠もなくそう信じてしまう傾向がある。これは、結局のところ「オオカミ犬」報道と同じだと思う。

報道を信じる人ほど不幸せ?!

 内閣府の生活の質に関する調査では、組織への信頼の程度別の幸福感(幸福度)を集計しているので下に掲げた。これを見ると、一般に、種々の組織への信頼度の高い人ほど幸福度が高いことが分かるが、報道機関に関しては、信頼している人の幸福度が余り高くなく、また信頼している人と信頼していない人との幸福度の差が小さいという結果になっている。このデータの解釈の仕方としては、批判的な見方をする人ほど幸福感が薄く、また報道機関への信頼度も高いととらえるよりは、単純に、報道機関を信頼している人ほど社会を暗く考えてしまって幸福度も低くなると考えた方がよいだろう。


日本人がマスコミを異例に信頼する本当の理由は何か?

 現代日本のマスコミ人は、かつて社会の木鐸といわれた時代ほど社会改善意欲が見受けられないにもかかわらず、社会のマイナス面を暴くのには相変わらず熱心であり、結果として、国民を脅すようなかたちで生業をたてているように見えてしまう側面があるだろう。これが、国民の一部に、マスコミ嫌いを作り出す理由となっていると考えられる。

 メディアに関しては偏向報道への批判がしばしば行われる。御用新聞という言葉は政府の主張を無批判的に報道するメディアに対して用いられ、左翼新聞という言葉は、政府批判や左派的主張を無批判的に行うメディアに対して用いられ、いずれも偏向報道として批判される。日本におけるメディアへの信頼度の高さは偏向報道が多いにもかかわらず信頼度が高いものとして「国民は馬鹿だ」というような主張の根拠となる場合が多い。ところが、むしろ、偏向報道だから信頼度が高いという考え方も米国の研究者の分析ではあるようだ。

 英国エコノミスト誌(サウガト・ダッタ編「英エコノミスト誌のいまどき経済学」日本経済新聞出版社(原著2011年)第4章「偏りのある市場」)によれば、米国でも日本と同様に政治家が偏向報道への批判を繰り返しているようだ。2008年大統領選挙では、オバマ大統領は右よりテレビ局であるFOXテレビを、また、共和党指名の副大統領候補だったサラ・ペイリンはニューヨーク・タイムズなど「リベラル・メディア」を偏向報道と言い立てていた。

 ところが、ハーバード大学の2人の経済学者は有名な論文の中で「人々が正確性だけを重視すると考えるのは甘すぎるのではないかと書いている。そこで両氏は、新聞の読者は読んだものによって自分の信念が裏づけられることを好むと仮定し、その結果をモデル化した」。また、シカゴ大学ビジネススクールの2人の経済学者はこれを実証的に検証した。それによれば、郵便番号別の地域の政治傾向のデータによって「購読層の政治的構成を踏まえ、サンプル中の各新聞にとって利益が最大になる偏向度が計算できるのだ。両氏はこの利益が最大になる偏向度を、各新聞の報道の実際の偏向度と比較した。すると両者には驚くほどの一致が見られた。平均的な傾向として、各新聞は両氏が利益を最大とみなした偏向度から、右にも左にもずれていなかったのだ。これには商業的にもっともな理由がある。彼らのモデルは、この「理想の」偏向レベルを少しでも外れると発行部数が大きく落ち込み、利益が損なわれることを示していた」。

 エコノミスト誌によれば「偏向報道はメディアの機能不全の兆候と受け取られる。本当は健全な競争の兆候かもしれない」というわけである。話はここで終わらない。

 両氏は偏向を決めているのはオーナーなのか需要なのかにまで研究を及ぼす。米国では複数の新聞をもつ大手メディア企業があるが、同じオーナーの新聞2紙とこれとは別にランダムに選んだ新聞2紙とを比べ、相関を調べた結果、「偏向へのオーナーの影響は無視していいということだ。読者の政治的見解は、計測された偏向の約5分の1の要因になっていたが、オーナーについてはゼロに等しかった」。つまり、ジャーナリストもメディア・オーナーも、偉そうなことを言ってはいても、自分の書いたものが売れればよいという行動パターンなのだとされているわけである。

 これは市場経済精神の徹底した米国だからであり、儒教の影響に強い日本では当てはまらないという議論もあろう。ただ、日本近代のジャーナリズムの当初からの特徴として時流に対する柔軟性があげられるという指摘もある。鶴見俊輔は『転向』上巻の序言「転向の共同研究について」で転向と非転向についてこう言っている。

「日本思想の流れに武士的なものと庶民的なものとがあるように、転向観にも同じ二つのタイプがある。武士的転向観は完全な非転向を模範として説くことに終始する理想論であり、その理想的非転向の模型からの逸脱として、現実個々の転向例を断罪する。この考え方は、日本の学者の系譜、進歩的政治家の系譜をつらぬき、共産党にひきつがれているものと見てよい。庶民的転向観は、流されてゆくだけが人生だと見て、転向だけがあると考える現実主義に根ざし、非転向というものは偽善者のポーズにしかすぎぬとする。この考え方は、実業にたずさわる人々の系譜、ジャーナリストの系譜をつらぬいている」。

 日本のこれまでの転向論議はこの「二つのタイプの交替と無原則な折衷」であったのだが、そうした状況を克服し、「転向、非転向の時点と特徴をはっきりと記述する習慣」をつけようという宣言である。

 同様の対比は、江戸町人の子孫である長谷川如是閑の自叙伝の中で田舎武士と江戸っ子を比べている次のような叙述にもうかがわれる。「何事をも茶化したがる都会人的遁避主義のお陰で、明治時代になっても、都会の江戸っ児は、時代の歴史の当面に立つことを避けて――というより立ち得ないで――ただ横合いから、批判の白眼で時代を睨んでいるのに留まったのである。だから明治時代に幅を利かしていたものは、みな地方での人々で、いわゆる「田舎もの」ばかりだった。江戸っ子で世に聞こえていたものは、今いうインテリと小説家だけだった。殊に小説家は江戸生れに独占されていた。これは小説には必ずなくてはならぬ会話の直写が「田舎もの」にはどうにもならなかったからであった」(長谷川如是閑「ある心の自叙伝」講談社学術文庫、原著1950年、p.14)。

 先の鶴見俊輔の文章は、しまね・きよし「転向ー明治維新と幕臣」三一新書(1969年)からの孫引きである。しまね・きよしはこの本の中で、ジャーナリズムの思想として、幕臣出身で1968年に日本初めての新聞の1つを発行し、維新政府を批判して逮捕され入獄したり、逆に御用新聞と批判された東京日日新聞(大阪毎日新聞と合体して現毎日新聞)の主筆をつとめたりし、軍人勅諭の起草者との説もある福地桜痴(福地源一郎)を取り上げている。

 政府の中でも維新のときに最初から反幕だった長州はよいが幕府を裏切った薩摩にはアンチをつらぬき、北海道開拓使払い下げ事件の時には、「攻撃目標が薩摩閥であったので、はっきりと反政府の立場にたって攻撃をおこなった。福地は『東京日日新聞』にその反対論を掲載しただけではなく、それまで論争していた急進的民権家とともに壇上にたって演説もおこなった。福地の政府攻撃は急進的民権家よりも激しくさえあった。

 しかし、福地はこの払い下げが取り消しになるとともに、政府と疎遠になった時期をとびこして、ふたたび振り出しに戻って政府と密着する」(p.173)。最後は、伊藤博文と約束していたと考えていた東京日日新聞の官報化が挫折し、官報の発行で読者数の急減に見舞われると、再度反政府の立場に戻ったが筆は絶ったという。なお、雅号の桜痴は吉原の愛妓桜路に溺れたのを記念するためだったという(中山太郎「売笑三千年史」ちくま学芸文庫、p.618)。敗残の幕臣の高いプライドと屈折した心情が現代のジャーナリストにまで受け継がれているといえよう。その結果、意図したわけではないかもしれないが、いわゆる偏向報道も生じるし、また時流に素早く対応した論調ともなるのであろう。これが結果として国民感情にもよく連動し、国民から信頼を得ることになったのかも知れない。

 もともとジャーナリストは新聞の販売で生活したので、読者の感情に訴えて売り上げを伸ばそうとする習性がある。エドガー・アラン・ポーは、19世紀半ばに彼が創始した探偵小説の中で、先入観だらけの殺人事件報道への論評として、名探偵オーギュスト・デュパンにこう語らせている。「いったい新聞の目的というものはね、真実を追求することよりもだよ、何かセンセーションを起こすこと――ただ議論を立てる、ということにあるってことをね、ぜひとも忘れちゃいけない。前者の目的は、ただね、後者の目的と一致するかに見えた時だけ、追求されるにすぎない」(「マリ・ロジェエの迷宮事件」、中野好夫訳、岩波文庫p.158)。

 このため、メディアは場合によっては世間を騒がすだけの存在となり国民の信頼を失うことになる。海外ではそうしたケースが多い(図録5212h参照)。日本の場合は、例外的に、国民の信頼を依然勝ち得ているのであるが、メディア特有のセンセーショナリズムに儒教的あるいは反権力的な抑制が働いてきたからであろう。

 ということで、何故、日本だけで新聞への信頼度がこのように高いのかをジャーナリズムの発生からたどってみようということで調べてはいるものの、釈然とした理由はなお見つからないというのが現状である。
信頼度のマスコミ優位が、なぜ、日本だけで成立しているのか

 政府との対比における信頼度のマスコミ優位が、なぜ、日本だけで成立しているのかについては、2000年期の世界価値観調査ではじめて気がついて以降、私は長らく考えを巡らせてきた。

 政府の信頼度が低いから目立つという理由は、これまで見たように他の先進国でも低いので、当てはまらない。有力な要因と見られた「文」を重視する儒教の影響は、同じ儒教国である中国、韓国、台湾などでは共通の特徴が見られないので当てはまらない。

 日本のマスコミは他国より客観報道が多いためという理由については一理あるかもしれない。新聞・雑誌でイメージする対象が日本の場合は、朝日、読売のような大手一流紙であるが、欧米の場合は普通はニューヨークタイムズやワシントン・ポストといった高級紙を頭に置いていることは少ないからという理由も同様である。しかし、例えば、大手新聞社が行うのが一般的な世論調査の結果への信頼度を比較した調査結果によると、世論調査が人びとの意見を反映していると思う人の割合は、日本の場合、欧米の主要国と比較してむしろ少ない(図録5212k)。つまり、報道の客観性から信頼度が高くなっているとも必ずしも言えない。

 明治維新以降、薩長政権にアンチを貫いた旧幕臣や戊辰戦争の旧幕府側諸藩の出身者から受け継がれたジャーナリストの倫理観の高さ(のちに左翼志向として生まれ変わるが)という仮説も上で検証してみたが、報道人がそんなにご立派な人々だったとは必ずしも言えないことが分かった。実際、国民も戦前からマスコミをそれほど立派な存在だとは思っていなかったようだ(注)

(注)永井荷風は日記の中で新聞人は営業のためには論調をころっと変える存在だと見なされていたことについて次のように記している。「去秋満洲事変起りてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯ぶること益々甚しくなれるが如し。道路の言を聞くに去秋満蒙事件世界の問題となりし時東京朝日新聞社の報道に関して先鞭を『日々新聞』につけられしを憤り営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹には甚冷淡なる態度を示したりし処陸軍省にては大にこれを悪み全国在郷軍人に命じて『朝日新聞』の購読を禁止しまた資本家と相謀り暗に同社の財源をおびやかしたり。これがため同社は陸軍部内の有力者を星ヶ丘の旗亭に招飲して謝罪をなし出征軍人慰問義捐金として金拾万円を寄附し翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありといふ。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり。かつまた陸軍省の行動は正に脅嚇取財の罪を犯すものといふべし」(「断腸亭日乗」、昭和7年2月11日)。

 そこで、今のところ、私は次のように考えている。

 もともと日本人は、歴史的に中国や欧米と異なり国家という存在に疎遠な民族と言えるが、明治維新とともに、外国への対抗上、思いのほか強力な国家ができてしまい、生活心情的に居心地の悪い思いをしていた。

 そうしたところに、御用新聞として国家に密着したり、逆に反体制新聞として政府に反対したりするものの、実は国家とは距離を置いたジャーナリズムという存在が現れたので、日本人は「待ってました」とばかりに、これに妙に親近感を抱くようになったのではなかろうか。これが日本人特有の新聞・雑誌への高い信頼度の理由なのだと考えられるのである。

 図で取り上げた国は、先進国、途上国の順に、オーストラリア、オーストリア、チリ、台湾、チェコ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、アイスランド、イタリア、日本、韓国、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、スロバキア、スロベニア、スペイン、スウェーデン、スイス、英国、米国、アルバニア、アンドラ、アゼルバイジャン、アルゼンチン、バングラデシュ、アルメニア、ボリビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブラジル、ブルガリア、ミャンマー、ベラルーシ、中国、コロンビア、クロアチア、キプロス、エクアドル、エチオピア、ジョージア、グアテマラ、香港、ハンガリー、インドネシア、イラン、イラク、カザフスタン、ヨルダン、キルギス、レバノン、リトアニア、マカオ、マレーシア、メキシコ、モンテネグロ、ニカラグア、ナイジェリア、パキスタン、ペルー、フィリピン、プエルトリコ、ルーマニア、ロシア、セルビア、ベトナム、ジンバブエ、タジキスタン、タイ、チュニジア、トルコ、ウクライナ、マケドニアである。

(2013年10月20日収録、2014年8月19日内閣府調査引用・コメント、2015年1月29日偏向報道や福地源一郎に関する記事を紹介、1月30日高い信頼についての私見追加、8月13日長谷川如是閑引用追加、8月18日同正宗白鳥からの孫引きから原著引きへ、2018年8月14日コメント補訂、2020年1月1日2005年期から2010年期へ更新、2021年1月31日更新、棒グラフから散布図に図形式変更、8月20日オオカミ犬、冒頭散布図のもう1つの解釈、9月3日最終セクション追加、荷風引用、9月25日世論調査への信頼度)


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