(世界)

 世界最大の流域面積の河川はアマゾン川であり、南アメリカ大陸の約40%に当たる705万kuの流域を有する(阪口豊・高橋裕・大森博雄(1986)「日本の川」岩波・日本の自然3による。以下同様)。

 世界第2位の流域面積はアフリカのコンゴ川(369万ku)である。世界で最も長いナイル川(6690km)も流域面積は301万kuとコンゴ川には及ばない。コンゴ川の流域面積はアフリカ大陸の12%を占めている。アフリカで3番目はニジェール川の209万kuである。

 アフリカの河川流域と国境の不一致については図録9420参照。

 世界第3位はミシシッピー川の325万kuであり、北アメリカで2位のマッケンジー川の2倍近くである。

 アジアには300万ku以上の流域面積の河川はなく、最大なのはオビ川の295万kuである。中国の揚子江(177.5万ku)、黄河(98万ku)は、エニセイ川、レナ川、アムール川に次ぐアジア5〜6位の河川である。インダス川、ガンジス川、メコン川がこれらに次いで大きな流域面積を有している。メコン川は長さ(4500km)ではオビ川、揚子江、黄河に次ぐアジア第4位の河川である。

 ヨーロッパ最大の河川はボルガ川の142万kuであり、第2位であるドナウ川の81.7万kuの2倍近くとずばぬけている。

 世界の大河川の多くが国境をまたぐ国際河川になっている状況については図録9417参照。

(日本と世界の比較)

 日本で最大の流域面積は”坂東太郎”で知られる利根川の1万6,840kuである。これはドナウ川の50分の1であり、とても比較にならない。しかも列島面積の5%弱であり、10%内外かそれ以上を1つの河川の流域が占めている各大陸の河川状況とは質的に異なる状況にある。

 流域面積の規模の違いから洪水のイメージも日本と大陸国では大きく異なっている。日本では台風が来たり大雨が降ると洪水になるというイメージだが大陸国ではその場所で雨が降っていなくても川が氾濫して洪水が起き、しかも一気に洪水になるのではなく何日もかけてじわじわと増水し街や地域が水浸しになるというイメージなのである。

 これはネットフリックスで配信していた2022年のポーランド・ドラマ「グレートウォーター:ヴロツワフの大洪水」を見ても明らかである。このドラマは、実際に起った大洪水を題材に、きちんと予測できれば事前に避難し、上流の堤防を敢えて壊すなどして、被害を減らすことが可能であるし、そのための時間的余裕もあるのに、政治家や学者、メディア、あるいは軍隊、警察を含む当局の不手際、身勝手、意思疎通のなさによって、みすみす防げる大被害を食い止められなかったというドラマだった。

 また東南アジア半島部ではこうした洪水の後、水が引いて干上がった魚を有効利用するため保存食品としての鮨の原型が形成されたのだった(図録7762参照)。

(日本)

 利根川は流域面積は第1位であるが、長さは322kmと、最も長い信濃川の367kmに次ぐ第2位である。

 流域面積第2位以下の河川は、石狩川、信濃川、北上川、木曽川と続いており、流域面積は、それぞれ、1.43、1.19、1.02、0.91万kuとなっている。大陸の河川と異なり、1位と2位以下の河川の流域面積の差が余りないどんぐりの背比べの状況にある点ももう1つの日本の河川の特徴である。

 もう1つの日本の河川の特徴は、流域図からも見て取れるような流域面積の大きさの東西格差である。「流域の大きさを地域別にみてみると、上位15河川はすべて近畿以東の河川で占められ、そのなかの木曽川、淀川、天竜川をのぞく12河川は東北日本・北海道を流れている。中国の江川(ごうがわ)は16位、”四国三郎”で知られる吉野川は17位、九州で一番大きく、”筑紫次郎”で知られる筑後川は21位である。日本の大河川が東北日本や北海道に多いのは、この地域で日本列島の幅が広く、河川が大きく生長しうる条件があることと、流域に構造盆地があって、そこに流れこむ多数の河川が合流して、一塊りの大きな流域をつくっているからである」(前掲書、p.213〜214)。

 日本の各河川の流域の具体的な状況については、「DamMaps:川と流域地図」というサイトで見ることができる。以下にはその一部を掲げた。

 各県は日本海側か太平洋側に流れ出す水系に属しているが、福島県のように太平洋側の県であっても会津地域は日本海側の流出する阿賀野川水系に属するというような例外もある点が理解される。会津にはニシンの山椒漬けという郷土料理があるが、これは会津が阿賀野川水運を通じ北前船文化圏に属していた名残りである(図録7810参照)。

 こうした会津の立地上の特性は古代からのものである。その証拠に、古事記には会津の名の由来が次のように記されている。第10代天皇である崇神天皇の時代に、大和朝廷の支配領域を拡大するために全国に4人の将軍(四道将軍)が派遣された。その中で北陸(越の国)に派遣されたのが大毘古命(オホビコノ命)、関東・東北方面に派遣されたのが建沼河別(タケヌナカハワケ)だった。二人は親子でもあったのだが、二人が各地方の平定後に会津で落ち合ったので、そこが会津と呼ばれるようになった。



(2017年7月11日収録、2022年8月2日にしんの山椒漬け画像、10月8日日本と大陸国の洪水パターンの違い、2023年8月17日古事記における会津という名の由来)


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